国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

巻頭コラム

World Watching from Sichuan, China  2010年10月15日刊行
長野泰彦

● ギャロン語の危機

2009年から4年間、日本学術振興会の科研費を受けて、ギャロン語の方言を調べている。私はチベット・ビルマ諸語の歴史研究を進める過程でその古い層を代表しているらしいギャロン語と出会って以来、その記述研究に携わってきた。もう30年になる。恥ずかしいくらい長く研究している割には分からない点が多々あり、定年を控えてかなり焦っている。

近年やっとギャロン語の記述研究がポツポツ出るようになったが、たとえば、母音がいくつあるのか、声調による区別はあるのか、といったごく基本的なことについてすら説が定まらない。また、文法も方言差が大きい上に、ここ20年ほどは文法そのものが急速に変化しつつある。ギャロン語は動詞句中心の言語で、動詞語幹の前後に多くの接辞が付いて、豊富な情報を表現する。接辞を間違えると、全然違う意味になってしまう。で、こんなややこしい言葉はまっぴら、それよりリンガフランカとして有力な中国語を話した方が楽だし有利だ、と考えるギャロンの若者は多い。固有の文字を持たないため、学校教育でギャロン語が使われないことも手伝って、この傾向は強まる一方である。

おまけに、「西部大開発」(経済格差を是正するために国務院が行っている西部内陸部の開発計画)という中国の国策により、発電のためのダムが数多く作られている。ギャロンは急峻な渓谷地帯で、ダムにはおあつらえ向きの地形。四川省外からも資本がなだれ込んで、ダム建設ラッシュになっている。その結果、ギャロン北部と南部では水没する村落が他地域に移される事態があちこちで見られる。いわば、ギャロン社会の崩壊で、当然言語も変化ないし衰退を余儀なくされる。消滅の危機に瀕した言語の典型である。

今夏は、このダムに関わるトラブルにもろにさらされることとなった。四川省と境を接する甘粛省舟曲で大土石流が発生。おそらく深層崩壊だろうと推測されているが、それが岷江を堰き止める。そこへ大雨が降って決壊。こうなると、下流わずか150キロの間に無理して作った6つものダムはとうてい保たず、岷江沿いの町を壊滅させたのである。中国科学院の先生が「これは人災だ!」と声を上げたことが香港の有力誌と四川の地方紙に載ったが、それ以降彼の発言は聞こえてこない。

かくて、いつも通る映秀・理県から北上するルートは使えず、ずっと南の雅安・小金を経由した。途中現在ギャロン語が通じる南端、磽磧で大規模な地滑りに遭った。ここも旧村はダムで水没し、村落ごと1000メートル高い場所に移動させられたのだが、今回の地滑りもダム工事と因果関係があるらしい。ダムの功罪はともかく、チベット・ビルマ諸語研究に重要なギャロン語が生き延びられることを切に望んでいる。

長野泰彦(民族文化研究部教授)

◆関連ウェブサイト
「チベット学」国立民族学博物館|研究テーマ・トピックス(長野泰彦)
国立民族学博物館調査報告(Senri Ethnological Reports)79
国立民族学博物館調査報告(Senri Ethnological Reports)93
外務省ホームページ