国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

研究テーマ・トピックス|平井京之介

組織と文化

 
1.制度と組織

学校や会社、宗教団体、自治体など、われわれは日常生活をさまざまな組織の一員として過ごしている。組織に属すということはどういうことだろうか。いったい組織とはなんだろうか。


タイ日系工場の食堂
タイ日系工場の食堂

わたしは組織を特定の目標を実現するために構成された人びとの集まりであると考えている。ここから組織が組織であるための必要条件がふたつ導かれる。ひとつは成員が非成員から区別できること。もうひとつは成員が何らかの目標に向かって協働すること。自分がメンバーなのかどうか、あるいは協力すべき他のメンバーが誰なのかがわからない人びとの集まりを、組織とは呼べないだろう。メンバーが明確に規定されていても、グループが同じ目標に向かって連携するということがまったくなければ、その人たちをひとつの組織と見なすことはできない。


会社組織の場合、通常、会社の成員が誰であるかははっきりとしている。もちろん、大企業の場合、全社員の顔と名前は一致しないだろうが、少なくとも同じ部や課に属する他のメンバーは明白だろうし、そうでないメンバーでも、さまざまな方法によって誰が組織の一員であるかを容易に確認することができる。また、多くの社員は売り上げ目標を達成したり、納期を守るといった会社の目標に向かって協力して働いているにちがいない。


きょうは楽しいパーティです
きょうは楽しいパーティです

この際、注意しておきたいことは、組織の存在自体が明らかであったとしても、組織の目標と各成員の組織における個人的目標はかならずしも一致していないということだ。出世のために死にものぐるいで働く社員もいれば、食べるためにしかたなく会社に籍をおき、ほどほどに働いているふりをしながら週末のデートのことばかり考える社員もいる。いろいろな社員がいるにちがいない。それでも各人が会社のメンバーであり続けるためには、「会社のメンバーであるために最低限どのようなことが求められるか」についての基本的な了解を共有し、この了解に基づいて協働する必要がある。この了解を欠いたメンバーが目立つようになれば、その会社はバラバラな諸個人の集まりに過ぎなくなってしまう。ふつうの社員は会社の目標と自らの個人的な目標とのあいだを行きつ戻りつしている。このことは会社だけでなく、あらゆる組織に共通して言えることであろう。


さらに、多くの組織では分業や階層構造をとっている結果、各メンバーに求められる行為が成員ごとに異なっている。組織は特定の目標を実現するために、特定のタイプの行為を特定のタイプのメンバーに役割として割り振っており、メンバーにもこれは当然のこととして認められている。こうした取り決めを制度と呼ぶことができる。制度とは組織を支えるさまざまな取り決めのことである。こうした取り決めの多くはそれほど合理的というわけではなく、さまざまな価値観や権力関係、つまり文化と結びついて成立している。


わたしはこうした組織における制度の役割を、東南アジアの日系工場のケースを取り上げて考えている。制度は通常、組織のメンバーに自然なものとなっており、自然なものとなっていることさえあまり意識されていない。しかし、組織が異なる文化的背景をもった人びとから構成される場合や、組織構造やシステムが異文化環境に移植された場合などに、こうしたことが問題となって顕著に現れてくる。東南アジアで日系企業が採用する制度が日本人にとっていかに経済合理的あるいは価値中立的であるように思えたとしても、かならずその背後に彼らの文化的前提が潜んでいるということだ。われわれにとってあまりに自明で、透明な存在になってしまったものも、東南アジアの人びとには奇異で、極彩色をもった存在に映るのである。

 
2.東南アジアの日系工場
工場内にあるセパタクローのコート
工場内にあるセパタクローのコート

70年代半ば以降、先進工業国の製造業者はより安価な人的資源を求め、発展途上国へ生産拠点を移していった。こうした現地工場で採用されている管理運営システムは先進工業国から移植されたものであり、現地社会とは大きく異なる文化的背景を前提として構成されている。日本企業が東南アジアで操業する工場は、多少の現地化が進められているとしても、基本的には日本の文化的背景のもとで蓄積された技術や知識、経験を基に開発されたシステムを採用し、これにそって日本人マネージャーが管理運営している。このような現地工場の内部に見られる人びとの関係のあり方は、ローカルな社会関係の自律的変容の一部として生まれたものではなく、外部から移植されたものなのである。東南アジア諸地域の文化的伝統で育った人びとが、日本から移植された工場に身を投じたとき、彼らは工場システムにたいしてどのような反応を見せるのだろうか。


非西欧の文化的伝統で育った労働者が近代的な工場システムに示す反応については、これまでにもさまざまに論じられてきた。もっとも広く受け入れられているシナリオは、労働者は工場で伝統的な価値観や行動パターンを捨て去り、マネジメントのおこなう教育や職場仲間との社会化を通じて近代的なシステムに適応していくとするものである。この種の議論が共通して考える労働環境には、マネジメントによって誘導された社会化の過程がある。新人はそこにすでにある社会的規範を身につけることによって企業において協力的な態度をとるようになると仮定されており、組織の文化とは要するに逸脱行為を管理するマネジメントの道具と見なされる。このシナリオのもとでは、マネジメントが企画する行動規範に従わない者は、産業社会の価値システムを十分に身につけていないか、階級意識が強いか、たんに鈍いものとして扱われる。


工場の一角にある地霊のほこら
工場の一角にある地霊のほこら

もうひとつのよく知られたシナリオは、伝統的な価値観や行動パターンと、工場システムが要求する価値観や行動パターンとの質的隔たりによって、非西欧の文化的伝統で育った労働者は近代的な工場システムに不適合な行動を見せる、あるいは適合した行動を見せていても内面的な不適応を起こし、疎外感や無力感を強く味わうとするものである。このシナリオは、労働者が工場で働き始めた当初のとまどいをある程度説明しうるだろう。しかし、社会経済的環境の変化に応じて労働者の行動が変化していく可能性をまったく考慮していない点で問題がある。


上記二つのシナリオはともに、非西欧的な文化的伝統のもとで育った人びとを、近代的なマネジメントシステムのもとにおいて何もできない非合理的な諸個人の集まりとみなし、彼らがシステムにたいしてもつ社会的影響力を軽視あるいは無視する傾向がある。これでいいのだろうか。「制度的まなざし」、すなわちマネジメントシステムが正常に作用することを前提にした議論の枠組みからいったん自由になり、労働者が同僚とともにさまざまな知識や技能、生活様式を形成し、それらが工場システムに影響を与えていくさまざまな可能性について考えてみる必要があるのではないだろうか。


そこでわたしは次のようなシナリオを考えている。非西欧の伝統的文化のもとで育った人びとは、伝統的な価値観や行動パターンを保持したまま、工場で直面するものごとを同僚とあれこれ議論しながら解釈する。また解釈に基づいて行動する。そして、これらの社会的な解釈や行動が工場における次なるものごとの社会的条件をつくりあげる。このシナリオでは、工場が提供する社会経済的条件のもとで、労働者が社会的に意味を構築する過程に注目している。

 
【参考文献】

(1)1998年「企業の人類学的研究──疎外、インフォーマルシステム、ジェンダー──」『社会人類学年報』24巻pp.171-187 (2)1996年「北タイの工場社会における権力と相互行為──日系文具メーカーの事例から──」『国立民族学博物館研究報告』21巻1号pp.1-76