国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.3 立川武蔵― 癒しと救いの違い

[12/13]
─ 研究会ではタイトルを「癒しと救い」とつけておられたんですけれども、癒しと救いの違いはどのように考えておられますか。
立川 先ほどもいいましたように、この場合の癒しというのは、主体的な努力なしに傷が癒えていくようなことをいってます。救いというのは、歴史的にいうと、宗教的な自己否定がないと、宗教的な救いとはなりません。けれども、キリスト教のなかには、宗教的な厳しい自己否定があってはじめて得られるものを癒しと呼んでおられる人がおられます。けれども、だいたい癒しには安易な気持があるんです。では、悟りと救いとどう違うかというむずかしい問題につながってくるわけです。悟りは自力で、救いは他力かというと、そう簡単ではない。自力他力ということばは、あるところでは非常に重要なんですけれど、やっぱり、その区分に意味はないとおもうんです。どちらにしろ、自己否定、自分を鎮めていくということは必要だとおもうんです。インドの場合では、先ほど書きました山の形ですね、この頂点に聖なるもの、あるいは人格神がいて、それが救ってくれるというような、建前の理論の建て方と、そういう人格神を認めずに自己否定をやっていって、知恵があらわれるなり、知恵を自分で獲得するという理論の建て方と、ふたつの方法があります。
それは、禅と浄土教によくあらわれるんです。浄土教では、向こう側に阿弥陀という人格神がいるわけです。人格神を相手にしながらむかっていく。ところが、禅の場合には、そういった人格神というものをたてない。でも、あるところに至ったときに、「ひらめき」といったようなものがくる。しかし、わたしは、究極的には、浄土教でも禅でも同じことだとおもうんです。自己を否定してゆくときに、阿弥陀という人格神をたてるか、そういったものに頼らずにいくかという違いだけだとおもいます。
インドでもやっぱり二通りありまして、人格神をたてない形のものは、ヨーガです。それが禅につながっていく。人格神をたてる方は、バクティといわれるものです。これは、ヴィシュヌ教、シヴァ教にあって、それに帰依するということです。ヒンドゥーでは、現実には、ヨーガ的な修行方法と、人格神をたてる方法とはドッキングしてきます。日本の場合は、平安時代には念仏三昧といいまして、念仏しながらおこなう禅的な、ヨーガ的な瞑想がありました。しかし、日本では、禅なら禅、浄土教は浄土教というように別の形でつづいてきてるんです。ただ、密教の場合は、このふたつを兼ね備えているといっていいとおもいます。大日を人格として、そこに至るまでのヨーガ的な行をおこなってきた。

 
【目次】
マンダラとはなにかマンダラを観想する武蔵少年、学に志す「中論」研究 ─ 空と色インド思想 ─ 実在論と唯名論の闘い世界が神の姿であるというインド的世界観ヒンドゥー教と図像実践としての宗教近代と日本仏教私有財産をどう考えるか「癒し」の共同研究癒しと救いの違い浄土とマンダラの統合