国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

Seoul Style 2002 E-News 『こりゃKOREA!』


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   ご覧いただけます。

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             Seoul Style 2002 : E-News

               『こりゃKOREA!』

         http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/200203/index
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 2002.08.27 ━━

  2002年3月21日に一般公開された国立民族学博物館特別展「2002年ソウルスタ
 イル 李さん一家の素顔のくらし」は、7月16日に閉幕するまでの102日間に、
 のべ58,831人の入場者をむかえました。ソウルに住む李源台さん一家の3LDK
 のアパートにあるすべての物をあるがまま展示場にならべ、家族5人それぞれの
 一日をたんねんに追う。この展示がめざしたのは、国を代表する特別な人物や高
 価な文化財にたよるのではなく、現代社会をあたりまえに生きる人たちの日常生
 活をとおして、"近くて遠い国"韓国の等身大の姿にふれることでした。

  ところが、展示のために家族がその持ち物をことごとく提供してくれることに
 なって、この展示は、たんなる韓国理解という枠組をつきぬけ、はるかに重大な
 意味をはらむことになってしまったようです。物とは、文化とは何か? おなじ
 空間をわかちあう家族とは、国家や民族とは何か? そして人間とはいったい何
 者なのか? 物にかこまれて生きる私たち現代人に抜き差しならぬ問いかけをつ
 きつけてきました。李さん一家の展示は、こうした問いかけをひとつひとつ解決
 するロジックのうえに、はじめて成立することができたのです。

  展示場のオープンにあわせて「こりゃKOREA」の発行がはじまります。ソ
 ウルスタイルという事件にかかわった者たちの目をとおして、いままで紹介され
 ることのなかった展示の舞台裏まであるがままにさらけだそう。家族さえもひと
 つの事件ととらえようとしてきた展示のコンセプトそのままに、そして、すべて
 を公開してくれた李さん一家の英断にこたえるためにも。そういう思いで毎号の
 執筆者の人選はすすみました。どうしても都合がつかずに辞退されたかたもいま
 すが、ほとんどのかたは、依頼の意味を理解して、けっして仕事にならない原稿
 をこころよくひきうけてくださいました。もちろん、毎号かぎられた文量のなか
 で紹介できたのは、展示をささえてくれた館内、館外の多くの関係者のほんのひ
 とにぎりにすぎません。ソウルスタイルにかかわったすべての人に、この場をか
 りて、あらためてお礼もうしあげます。

  5ヶ月以上にわたって発行をつづけてきた「こりゃKOREA」もこの20号を
 もって終了します。最終号はソウルにある李さん一家のアパートから、ソウルス
 タイルの展示をふりかえって、家族のみなさんに現在の心情をつづってもらいま
 した。ほんの数日のつもりで調査をうけいれてくれてから、運命的な展示が終了
 するまでのかれこれ2年ちかくにわたり、わずらわしい注文にもいつも誠実にこ
 たえてくれた李家のみなさん、ながいことご協力いただきありがとうございまし
 た。展示場の李家をおとずれたすべての人にかわって、かつてない経験をともに
 できた喜びをこころから感謝したいとおもいます。

  最後に、まぐまぐに登録された430人のソウルスタイル・ファンのみなさん、
 メールマガジンらしからぬ濃厚な内容に最後までおつきあいいただきありがとう
 ございました。ふたたびお目にかかる日まで。

                            佐藤浩司(編集長)

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  ● ふたたび千年が流れたのちに

                     アボジ  李源台(イ ウォンテ)
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  去る3月21日、<ソウルスタイル>開幕式に出席するため、関西空港から日本国
 立民族学博物館に着いた時、私はいくぶんあがっていた。けれども、家族が一緒
 にいたこともあり、また多くの人びとが私たち家族に注目していたので、展示家
 庭の代表として、家長の体面を守らねばならないと考え、私は無理に緊張をおさ
 えて毅然たるふりをした。
  私たちが着いた展示場には、私の家族が日常生活に使っていた家具や生活用品、
 装飾品はおろか、家族の下着や靴下、寝巻、外出着まで、ほんの数ヶ月前のわが
 家がそのまま再現されていた。そればかりか、妻とかわしたラブレターもあった
 し、遠いむかしの予備軍服と兵役手帳、それに民主化学生運動の主犯だったこと
 をしめす「学士警告」のはいった大学の通知簿までそのまま展示されていた。

  展示場は、家族が暮らしたアパートと同じ面積、間取りでつくられ、手垢のつ
 いた家具や居間のソファーまでそのままに置かれていたので、しばしの外出から
 家にもどってきた気分とでも言えばよいだろうか? ソウルのわが家でいつもそ
 うしているように、居間のソファーに座ってTVやビデオをたのしんだり、オー
 ディオをかけて好きな音楽を聞くこともできたし、冷蔵庫から冷たい飲み物を取
 り出して飲んだり、箪笥の引き出しをあけて楽な服装に着換えることもできた。
 子供たちは自分の部屋の寝台に寝転がってやすめるようになっていた。もちろん、
 韓国の農村(故郷)、職場と屋台(アボジの生活)、市場(オモニの生活)、教
 室(子供たちの生活)まで補助的に再現された展示によって、ここが博物館の特
 別展示場であることを悟る必要はあったものの、私を含めた家族全員が楽な気持
 ちで自然に「過去のわが家」にとけこむことができた。

  開幕式出席と日本滞在を終え、ソウルの「見知らぬ家」へかえってきてから、
 ひとつの疑問がわきあがった。なぜ、日本の博物館はおびただしい努力と多くの
 費用をかけながら、文化財とも美術品とも言い難い粗末な生活財 - それも日常
 使っていた物 - をすべて実物で展示しようと試みたのかという疑問だ。
  <2002年ソウルスタイル展>は、特別な意味をもちそうもない韓国の一家庭の
 生活財を一切の加減なしにそのまま展示して、日本人の観客に隣の国の生活文化
 と接する機会を提供し、相互の理解をふかめようとする展示意図をもっていたよ
 うだ。文化科学を専攻した私からみても、<2002年ソウルスタイル特別展>は、
 ソウルに住む“特別ではない”一家族の生活財をあるがままにうつした、過去に
 どの国でも試みたことがない斬新な展示だった。

  そして、<2002年ソウルスタイル展>が国内のメディアをとおして私の周辺に
 も知られるようになった時、彼らがいだいた疑問も、私とおなじ種類のものだっ
 た。私の家庭の生活財がはたして博物館の展示品として意味があるのかといった
 質問にはじまり、すべての暮らし(生活財)を博物館にわたしたあとの生活の不便
 さや、家族の思い出のこもったものをうしなった名残惜しさについて、さらには、
 はなはだしく荒唐な質問まであった。
  400余年前の歴史的事件(壬辰倭乱)を思いおこして、韓国の生活財をそっく
 り日本に持って行くことがほかならぬ“文化的侵略”ではないかと危惧する者も
 いた。1592年の壬辰倭乱以前に、日本はわが国の人文地理的な資料についてすで
 に多くの情報をあつめていたのだから、今回の作業もいつの日か文化的侵略 - 
 帝国主義を思わせる - を実現するための下準備に悪用される恐れがあるという
 のだ。けれども、こんにち個人の生活文化(財)は悉く知られ、公開されている。
 「歴史は繰り返す」という格言もあるが、慚愧に耐えないのは、私たちが、なぜ
 そうした努力を傾けて隣の国の文化をあつめたり、理解しようとしないのか、せ
 めて現在の私たちの姿でも子細に記録し、保存しておこうとしないのか、という
 ことだ。

  なにより私は、今回の展示が韓国と日本の共催した[2002年FIFAワールド
 カップ]からはじまった経緯と博物館サイドの企画意図を十分に知っていた。
 そして個人的には、自身の生の痕跡をどこかに残したいという素朴な希望をもっ
 て、消耗品にすぎないわが家の暮らしが博物館の収蔵庫にはいることで永久保存
 できるのではないかと期待した。その文化的意義は、暮らしのすべてを博物館サ
 イドにわたしてしまうことによる生活の不便さを耐えても、なお大きなものだと
 思う。私は、日本の正倉院に収められている新羅の遺物を思い浮かべて、日本の
 国立民族学博物館という専門機関が大切だと認めるわが家の「とるにたりない」
 品物が、現在の時点でどんなにつまらないとしても、すべての事物の意味や文化
 的価値は見る人の視点によって異なるということを自覚するにいたった。

  このすべての悟りと理解にもかかわらず、私には生活人としての素朴な願いも
 ある。家族史的な意味や個人的な思い出などはいくらでも収蔵庫の生活財のあい
 だに埋めてしまってかまわないが、それでも博物館の展示品のなかには、展示の
 終了後に持ち帰りたい品物がある。私の家族の血縁的根拠を証明してくれる族譜、
 一枚しかない先祖の写真、それに私の家族アルバムなどがそれだ。もちろん戻し
 てもらえるなら、複製品や模造品を作ってほかの所藏品とともに保存してほしい
 という希望もある。たとえこんなささやかな望みがかなえられなくても、一番大
 きな願いは、わが家のとるにたりない生活財を遠い将来まで人類共通の資産とし
 てよく保存してほしいということだ。
  展示が終わるにあたって、私の心に刻印されたもっとも深い印象は、日本の国
 立民族学博物館の将来を見通す長い視角と広い視野、そして多様な活動にたいす
 る羨望と、とくに研究グループの学者的な態度と真摯な姿勢に心からにじみでる
 尊敬の念をいだくようになったことである。

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  ● ひとこと
         
                    ドンファ  李東華(イ ドンファ)
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         朝倉、佐藤先生  ありがとうございます。

         うちの物を絶対に捨てることなく

         そのままいつまでも保管してください!

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  ● 山は山なりに 川は川なりに
         
                    ハルモニ  趙男伊(チョ ナムイ)
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       ああ 嬉しいね
       朝 電話のベルに驚き受けてみると
       嫁からの電話だった

       日本の博物館 佐藤先生が
       この年老いた私の願いを聞きたいというので
       準備が出来ていないことも一つ一つ教えてあげようか

       嫁の意によって何十年暮らした物が
       日本へ送られ 新しい物がはいってきた
       時々 昔のものが懐かしいね
       ソウルの家に行き玄関を開けてみると
       建物は昔と同じなのに中の物はすっかり変わっていた
       見知らぬ物ばかりで まるで他人の家に来たみたいだ

       松の家具の大きな箪笥に沢山かけたハンガーと
       きちんきちんと入れておいた綿布団
       おお 懐かしくて惜しいね
       新しく買った布団の模様は 行商屋のおぶい紐のようで
       表も裏も区別がなく身体にくっつかない気がする
       昔の布団が 懐かしくて惜しいね
       私の作った敷布団が楽で柔らかく暖かいね

       ああ 世の中の人達よ 人生には壁が多くて
       いろいろ言いにくいことだらけだね

       楽で暖かかったわが家の大半が不便になったよ
       寝床も不便だし老人の引出しひとつもなく、
       孫娘の寝台下に頼るかな
       老いた人生 卑しい考えは捨てることが出来ないな
       慶尚道の固い山脈の精気をうけて生まれて
       70年があという間にすぎ 寂しいが
       物までも全部変わって 病気でない病気にかかりそうだ

       35坪のアパートのどこを見回しても
       私の手垢のついた品物たちは影も形もなくなった
       私の魂がはいり 私を守ってくれていた家具たちが
       今から 遠い異国の地 日本にあると思うと
       涙が出そうで 幼なじみを失った気分だ

       見知らぬ地に 私たちの物が陳列してある展示場に
       私と同年輩の年寄りがたびたび尋ねて来て
       韓国女性の伝統の物を沢山見て行き
       私の心を慰めて欲しい
       物を惜しんで大切に思う気持ちは
       日本でも韓国でも同じだろうか

       最近 若者達は一年先が遠いと
       新しい物にしきりに替える 世の中
       創造と環境の秩序に背く行為
       もう一度 振り返ってみて 昔の物を根本に
       新しい物を開発しなさい

       年寄りの回心
       山は山なりに 川は川なりに 山水江山に
       私も私なりに老いていくから 希望が呼応に
       人生は一場春夢だ ため息をつくしかないね

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  ● ひとこと
         
                  ウィジョン  李義政(イ ウィジョン)
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         とてもおもしろかったです。

         うちの家をわすれないように記憶します。

         佐藤先生も記憶します。

         物たちさようなら!!!

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  ● 私生活を捨て去る勇気までも
         
                    オモニ  金英淑(キム ヨンスク)
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  ソウルに住んでいる私の妹は17年間公立中学校の道徳科目の教師を勤めている。
 彼女は特別展展示図録を利用して中学2年生(600人)に授業をしたのだという。そ
 の授業は、代価なしにわが国の文化をあまねく知らせ、わが国文化のグローバリ
 ズムに寄与したすばらしい国民をたずねて、彼らの後日談を聞く時間だ。
  彼女は、まず<2002年ソウルスタイル>の企画意図とテーマを十分説明した後、
 展示図録のはじめのページから終わりのページまで欠かさずめくって学生たちに
 見せようとした。何ページかめくるやいなや、「日本がなぜわが国の品物を調べ
 ようとするのですか?」という学生たちの非難がおこり、展示の感想を討論しよ
 うとした当初の目的はあきらめるしかなかったという。

  こんにち、大韓民国ソウルの中学生の口から発せられたこの信じられない主張
 を聞いて、私の家族がこの世界史的にも重大な作業に積極的に協力したことが、
 おまけに日本の学者たちの仕事を助けたことが、韓国人としての自尊心を欠いた
 売国行為と叱責されたように心がみだれた。いまだにわが民族の日本に対する感
 情はこんなに遼遠なのだろうか!

  妹から鬱憤にみちた電話のあった日は、ちょうどソウル歴史博物館でひらかれ
 る「ソウルの歴史と文化」の講演会の初日にあたっていた。私は、毎週土曜日に、
 ソウル漢陽の歴史的、文化的背景をふりかえる歴史記録の講義に参加することに
 していた。何者かによって書きつづられた史実の記録こそが、過去、現在、未来
 という時間の中で、その時代を吟味するさいに本当の価値を評価されてきた。そ
 う確信しながら参加した会だった。

  よく知られるように、ユネスコ(UNESCO)の世界記録遺産に指定された『朝鮮王
 朝実録』は、まるで記録映画でも見るようなあざやかさで当時の統治状況を知る
 ことができる記録として注目されている。なかでも鳥肌がたつほど私をおどろか
 せたのは『儀軌』だった。朝鮮時代の王室や国家の主要行事の内容をまとめた記
 録書『儀軌』は、儀式の進行過程、参加者、費用などを詳しく記録したもので、
 その記録のち密さは驚嘆にあたいする。たとえば、宴会に食べた料理の種類と材
 料、建物を建てたり品物を作るのにかかわった技術者や労働者の名前、労賃、材
 料費などが詳細に記録されていて、のちに経済史、生活史、美術史研究の重要な
 資料になっている。その儀軌が私の目のまえで一枚一枚めくられながら、スピー
 カーをとおして聞こえてくる講義は、先だって中学生から受けた衝撃とは異なる
 角度から私をうちのめすことになった。

  その後、私はもう一度ソウルスタイルのすべての記録資料をゆっくり開けてみ
 た。ごま粒のような文字と、たちまち反吐をもよおしそうになる目まぐるしい写
 真で、20世紀最後のわが家の跡を記録したソウルスタイルの図録、映像、写真、
 CD資料などを見ながら、ソウルスタイルのこのすべての記録を朝鮮時代の『儀
 軌』にたとえたかった。支配層である王室ではなく、民の生活を記録した現代版
 『庶民儀軌』と!
  ソウルスタイルは韓半島のソウルに住んでいるイ・ウォンテさんの家族が生き
 る姿、なによりこの家庭の軸になる女性(オモニ、ハルモニ)の生きざまをリアル
 にうつしとった最初の生活報告書であり、その対象にわが家がえらばれたことを
 むしろ家門の誉れと思うのは途方もないことだろうか?

  事実、私は家族の中で一番大きな精神的苦痛を受けてきた。それは私の立場が
 ひとつではなかったからだ。一家庭の主婦、夫の妻、子供たちの母、家門の嫁、
 韓国人、韓国女性、それに情報の提供者、なかでも現地調査官として、成功した
 共同開催のワールドカップ大会のように、韓日共同開催ソウルスタイルの韓国側
 共犯者として、私には超人的で自発的な意志がもとめられていたのかもしれない。


   去る2000年11月、家のなかの品物をひとつひとつ写真に撮っておきたい
   という要請を許しただけだったのに、結局は家のなかのなんでもかんで
   も、そのなかに住んでいる人間(家族)の霊魂(心)までそっくり注ぎ
   こんだ歴史的大事件になってしまいましたね!


  2002年ソウルスタイル。この思いもよらない事件の前で、私は、いや私の家族
 は、最善を、献身をつくした。韓国人という自尊心と自負心を誇りに感じながら、
 文化がある民族は滅びないという確信をかためてゆきながら…。果敢に個人の私
 生活を捨てることのできた勇気もそこにあったのだろう。


                      (翻訳協力:花沢博美/朝倉敏夫)

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 ■ 編 集 後 記 : こりゃこりゃ通信 ■
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  2002年ソウルスタイルをごらんくださった観客の皆さん!

  家に客人を招いておきながら、主人は留守にして韓半島のソウルに隠れてし
 まった格好になり面目ありません。いま、その家は魔法使いの魔法からときはな
 たれて、時間のなかにその姿を溶かしはじめ、家のなかに存在していた物たちも
 つぎの世でふたたび光のあたる瞬間をしずかに待つのでしょうか?

  開幕式が、物たちの三虞祭(埋葬後三日目の祭祀)であったとすれば、閉幕式
 は100日脱喪祭です。遠く離れていても、物たちの喪主だった私たち家族は喪服
 をぬぐような気持ちですべてを未練なく心にしまうことにしました。

  長い調査期間、終始日本人であるのか韓国人であるのか錯覚するほど多感だっ
 た朝倉敏夫先生様、史官の御命を受けた形で史料記録に最善をつくしてくださっ
 た正直な佐藤浩司先生様、そのほか展示場関係者と歴史の中のわが家を訪れた幾
 多の観客たちに、今からでも女主人である私がつめたいジュース一杯なりともも
 てなします。

  皆さん、ながいあいだほんとうにご苦労様でした。
  それからわが家によくいらっしゃいました。
  2002年7月16日が、もう一つの命日として、皆さんとともに永遠にのこります
 ように・・・

                                 (金英淑)

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   ※このE-Newsは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用して
    発行しています。
 
      バックナンバー: http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/200203/news/index

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          編集・発行:2002年ソウルスタイル・プロジェクト・チーム

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