国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

月刊みんぱく 2008年4月号

2008年4月号
第32巻第4号通巻第367号
2008年4月10日発行
バックナンバー
 
エッセイ 世界へ≫≫世界から
トンパタロットの発見
浅葉 克己
 トンパ文字は奥が深い。これまでに中国雲南省麗江に五回ほど調査の旅に行って来たが、行くたびに新発見があり面白い。トンパ文字とは、麗江で今でも使われ、生きている象形文字のこと。二〇〇一年の第四回調査隊に女性の占師真矢茉子さんに同行していただいた。東巴(トンパ)文化研究所を中心に麗江の街をウロツクのだが、さすが占師、茉子さんがトンパの札を研究員の王さんの手もとから探し出してくれた。トンパは日常的には占師や名付け親だったりするので、引く札はもっている。本来は三三枚ある札を二九枚発見し、コピーをいただいた。そして、「トンパタロット」と名前までつけてしまった。ホテルに帰り半紙に細筆で書いてみたら、いい感じなのだ。これを出版したいと思い、出版社も決まり、いざという段階で編集者が突然変死。そのため七年間も日の目を見ずに眠っている。
 カード1は『日昇』。「太陽が山の頂を照らすように、あなたの人生にも幸運が訪れる」とあり、全体運と恋愛運、金運と続く。カード2は『神樹ハイパタ』。「天上界の神山にそびえる大樹・ハイパタは人生の実りをあなたに与える」。カード3は『赤虎』。「山を登る赤い虎。あなたの運気も虎の歩みとともに上り坂」。だがいいカードばかりではない。カード24『木を切る鬼』は天界の黒毒鬼が神樹を切り倒している。「災厄の予感があなたをとりまく」。日本の神社のおみくじも好きだがトンパタロットは数倍も面白い。
 東京ミッドタウンに安藤忠雄さんの設計でオープンした21-21デザインサイト(企画運営は三宅一生デザイン文化財団)で、今年の七月一九日から、三宅一生さんの指名を受け、浅葉克己ディレクションの展覧会を開く。テーマは、「祈りの痕跡」。誰が最初に痕をつけたのか。僕の頭のなかは、いつもこの疑問から離れることがない。最初の文字たちの誕生である。五〇〇〇年前にシュメール人が粘土板に楔形の文字を記した。その瞬間に考えや感情や人間の情熱や才能、芸術や科学は永遠の命をもった。
 「書く」という事ほど人類に大きな影響を与えた発明はないと思う。地球文字探険家としては、21-21の空間にこの痕跡を集め、文字でこの館を埋めつくしてみたい。トンパタロットも出展してみたいと思っている。

あさば かつみ/1940年、神奈川圏生まれ。アートディレクター。桑沢デザイン研究所、ライトパブリシティを経て、1975年浅葉克己デザイン室を設立。サントリー、西武百貨店、ミサワホームなど数々の広告を手がける。日宣美特選、日本宣伝賞、東京ADC賞グランプリ、紫綬褒章など多数。東京ADC委員、東京TDC理事長、AGI(国際グラフィック連盟)会員、東京造形大学・京都精華大学客員教授。中国の象形文字「トンパ文字」に造詣が深い。卓球6段。


みんぱく インタビュー
開館三〇周年、そしてこれから(1)
 民博は三月いっぱいまで、一年三ヵ月にわたって開館三〇周年記念事業を繰り広げてきました。今月号では、この事業を踏まえ、今後どのように継承発展させていけばよいか、松園万亀雄館長をはじめ、事業を事務的に支えてきた管理部総務課総務係の中原栄作さんに、編集長がお話を伺いました

松園 万亀雄館長に聞く
三〇年間の変化世界の変化と民博の研究
-この三〇年の変化についてまずお考えを聞かせてください
 民博は教員の研究の中身と展示方法の両面で変化し、それは近年になるほど激しいと思います。研究は主として教員個人の意志でやるので、スムーズな変化をしていると思いますが、展示は基本的コンセプトと物理的な側面もあるし、民博全体の意志を統一しないといけないので、研究ほどには変化が早くない、という印象はもっておりますね。
 開館したのは、途上国とよばれる国々が独立して十数年から二〇年のころなので、いわゆる伝統的な要素が色濃く残っていました。ですから、民博創設以前から日本にあった旧植民地時代のモノも含め、変化が緩慢な時代のモノを収集して、それで民博はスタートしたんだろうと思いますね。その後、世界の状況が変わって行って、一九八〇年代からグローバル化ということばが使われ始め、文化人類学の分野でも一九八〇年代後半からグローバライゼーションということばを使った本や論文がたくさん出るようになりました。
 こうした動きに合わせて、多文化的な要素を研究する人達が増えてきました。途上国の調査をするにしても、~族の文化というような固定化された文化の概念があてはめにくくなってきているし、同じ国のなかでも都会と地方のあいだで移動と文化の交流があったりする。実際、都会に出て住んでいる人でも、地方を気にして儀礼に参加する人、地方に送金する人、地方に家を建てる人、地方で老後の人生を送る人などさまざまなケースが生まれているし、地方同士の交流も増えている。よその国との関係も強まり、さまざまな援助や干渉が増えているし、ジェンダーの平等、公平など、ユニバーサルと思われている考え方が広まりつつあり、現地社会も外圧で変わってきています。憲法や法律にも、男女平等をうたうなど変化しつつある。教員の個々の研究では、こうしたグローバライゼーションの最先端の様相を踏まえた研究がたくさん出てきています。

長い目で変化を見る視点も
 例えばITなどを使って世界中の人びとの考えに均一的な要素が出てきているのは事実ですが、一方で伝統的な生活を送っている人びとがいることも忘れてはならない。先端的な様相だけに目を奪われてはならないと思います。
 三〇年前には、人類全体の歴史を考える研究者がたくさんいましたね。霊長類の一員としてのヒトが形質的にどのように進化してきたかを研究する人や、採集狩猟民、牧畜民とかを時間軸のうえに並べて進化論的に、つまり、長い時間幅で人類の社会変化を考える研究者が多くいた。でも、現在のようにグローバライゼーションが進むと、変化の最先端に目を向ける研究者が増えてきたことと裏腹に、人類史を長い時間幅で見る研究者が少なくなってきたと思います。これはあまりよろしくない現象だと思いますね。両方の研究が必要なのに、と思います。そのあたりを民博の今後の研究でも進めて欲しいと思っています。
 現在、民博の機関研究という枠組みは、「社会と文化の多元性」「人類学的歴史認識」「文化人類学の社会的活用」「新しい人類科学の創造」という四つの領域で研究を進めていますが、これは今言った意味で良い組み合わせだと思っています。例えば「文化人類学の社会的活用」は、変化の最先端を研究している。特に、開発援助などを含めて、近年起こった、外国からの援助によって現地社会がどう変わったかを追う研究は、一〇~二〇年間など比較的短い時間幅で地域を見ている。それに比べて、他の三つの課題では比較的長い時間幅をあつかっている。つまり、全体として時間幅の短いものと長いものがうまく組み合わせられていると思います。でもやはり、最近の激しい社会変化につい目がいくので、変化の最先端に関する研究が多くなっています。

モノの変化に対応した展示
 展示の変化に関して言うと、開館当時に集められたモノは、それぞれの土地で産出される素材を使った作られたモノであり、土地柄、社会・文化が特色あるかたちであらわれている。しかしこの三〇年のあいだに、輸入された素材が使われるようになり、画一化とまではいかないが、素材の点で見ると似たようなモノが世界に広がっていった。それだけでなく、文化的交流により、それまでの固定化された文化財的なモノが、外部の影響を受けて、デザインが変わる、色合いが複雑になる、など変化してきました。
-文化アイデンティティ表象のために、民族芸術などは外部の人に使ってもらうことを前提に作られている例が増えています。
 観光客に買ってもらうモノは、産業化が進んで事業として拡大しているのは事実です。観光土産というのは、売れるための要望に合わせて作るので、在来的な要素と外来的な要素が混じったものとなります。研究対象として面白い現象ですね。
 そこで、民博の展示を考える場合、モノの展示だけでなく、そうしたモノが産出された経済・社会状況の変化を知ってもらう必要があり、その手段としては映像が効果的だと思いますね。現在の民博で映像を使う手段には、ビデオテークや電子ガイドがありますが、展示とやや切り離された感があります。今後は、展示自体に映像をもち込む例が増えるだろうと予想しています。大森康宏さんが実行委員長をされた特別展「聖地★巡礼」は、映像そのものが展示になっていましたが、あれほどでなくても、映像を取り入れる展示が増えるでしょう。

民博の研究をアピールする機会としての記念事業
 わたしは館長になる五年前までは外部から民博を見ておりました。さまざまな学会の要望が実現し、優秀な研究者達が集められて民博が創設されたわけですから、一九七四年の創設当初は、日本における文化人類学・民族学の中心センターとしての熱意が大きかった。しかし一〇年、二〇年経つうち、関西にある一研究機関と見られるようになってきた、と外部からは見ていました。共同利用機関として作られたのに、充分その機能を果たしてきたんだろうかと思っておりました。ですから、館長になってから、共同利用性を高めるために、民博以外の研究者にも民博の研究資源をもっと使ってもらえるよう努力してきたつもりです。共同研究でも外部の代表者によるもの、展示でも、共同利用スペースを作って民博と協力して展示を作るもの、などができればよいと思っておりました。
 ちょうどそんなときに開館三〇周年を迎えたので、記念事業では、大阪に文化人類学のセンターがあることを全国にアピールする機会となるように努力しましたし、その効果はあったと思います。一〇周年、二〇周年に比べて三〇周年は重みがあるので、マスコミで取り上げられる機会も多く、広報関連の活動が質・量ともに盛んで、この三〇年のあいだでもっとも広報活動が盛んな年になったと思います。外部の広報関係者の協力や、五〇数名の教員がいろいろな局面で参加してくれました。総力あげて、ということばにふさわしい活動ができたと思います。
 これまでの外部へのアピールは展示が中心だったためか、入館者や市民は、本館四階に研究者がたくさん居ることを知らない。そこで、展示だけでなく、研究者のことを取材して欲しいとマスコミにも訴えたり、意図的に研究面での広報に力を入れてきました。民博内外での公開講演会、映画会、研究公演も、この数年間ではいちばん多く開催したと思います。
 例えば入館者との接点としての「ウィークエンド・サロン」では、五〇数名の教員に加えて名誉教授たちがいろいろな研究をしていることを多くの方々に知ってもらう良い機会となり、平均して三〇ないし四〇名の参加があったと聞いています。わたしの場合には、終わってからケニア紅茶を飲んでもらったりしました、質問も多かったし。また、教員の側からも、自分の研究について語る機会があって良かったという意見が多かったようです。この事業と、企画展「世界を集める」が、特筆すべき教員全員参加の事業でした。総掛かりで参加したという意識は、教員の皆さんも思ってくれているのではないでしょうか。教員だけでなく、事務系職員たちも多くの部署で横断的によく協力してくれたと、わたしはありがたく思っています。

研究を市民にアピールするには
 公開講演会、映画会の解説など、主として語りをとおして自分の研究を紹介する場合には、専門用語を使わないでわかりやすく研究の中味を伝えないといけない。民博は研究出版を出す仕組みを既にもっていますが、一般の方々が時間をかけずに読め、文化人類学を知ってもらう仕組みが必要です。一番いいのは、民博が出版局をもつことでしょうが、単独で出版局をもつのは難しいので、出版社とタイアップするなどの方法を考えればよいと思っています。
-確かに、学術出版は数百人の目にしか触れないかも知れない、ところが一般書となると何千、何万の人びとに広がる可能性がある。そのためには、教員側も、書き方、用語、論理の立て方、いろいろなところで工夫が必要ですが、出版社、編集者の協力があれば教員の鍛錬の場ができますね。
 そうです、次の館長には、そのあたりを考えてもらいたいですね。

今後のさらなる展開を
-館長は、法人化、創設三〇周年、開館三〇周年など、大変な時期に着任されたのですね。
 先ほどもいいましたが、共同利用機関として外部との共同利用性を高めることを考えてきました。また、教員たちが、それぞれの個人的努力でやってきた研究や社会連携活動を、館全体の活動に位置づけて、民博の出版物やウェブサイトでも広報するようにしてきました。これによって館全体の活動が盛んになったのは、それまでとは異なる点で、個々の教員、機関としての民博の双方にとって相乗効果があがったのではないでしょうか。もちろん、法人化に伴って館の活動をアピールする必要が生じたこともありますが、そのことをプラスにとらえたわけです。こうしたことは館長として心がけてきた点ですが、わたしがトップダウン的に進めるのではなく、教員の皆さんがそういう気になってもらうようにしてきたつもりです。
 また、二〇〇四年(平成一六年)の創設三〇周年の際に作った『国立民族学博物館三十年史』(平成一八年三月三一日発行)は、非常に良い仕事だったと思っています。日本の文化人類学の歴史や、民博の歴史を語る場合の重要な参考資料になると思います。あの本の良いところは、二〇年間を要約し、その後の一〇年間を詳しく記述してある点で、さすがに歴史学者である塚田誠之さんが委員長としてとりまとめた仕事だったと思いますね。
 開館三〇周年では、入館者数が増加しており、これを続けないといけない。そのために重要なことのひとつは、今後どのような特別展を開くかですね。専門的な関心のある人だけでなく、一般の人びとにも興味をもって研究成果を見てもらうには、もう少し工夫の余地があると思います。さきほどの出版の話と同じで、わかりやすい表現になるように研究者をサポートする仕組みが必要でしょう。MMPの意欲を取り込む仕組みも考えてはどうかと思っています。
 共同利用性を高めるという点では、研究に比べて展示は立ち後れている印象です。例えば、共同研究の審査には外部委員が加わりますが、展示企画を審査する会議に外部委員は入っていません。もっとも展示はお金がかかるし、館の意向や事務処理とのすり合わせに手間と時間がかかるので、共同研究のように簡単に外部に開く訳にはいかない、ということも良くわかっています。
-今後もっと展開すればよいものには何が考えられますか?
 映画会、海外からの演者による研究公演などは非常に人気が高く、外部にアピールする企画ですので、法人化のときには有料化の可能性も考えてみました。でも、収益としてみればごくわずかですので、むしろ無料のままの方がサービスの点で良いと思っています。
 また、博学連携はもっと進めたら良いですが、さらに、シルバー世代を開拓する努力があっても良いでしょう。学校団体については「事前見学&ガイダンス」をやっていますが、老人クラブでもできないか。老人クラブというのは全国組織で各地に支部がある、学校のようにかっちりした組織なので、働きかけをする余地は非常にあると思います。
-元気の良い団塊世代が増えてきていますしね。
 民博のさまざまな催しものに年配のリピーターが多いので、その方々と連携することを大いにやるべきだと思うし、必ず効果が上がると思っております。民博は吹田市と協定を結んでいるので、老人クラブの担当部署に仲介してもらって、市内の老人クラブに連絡する、情報を流す、それぞれの集会場があるのでポスターを貼る、修学旅行のように民博に来てもらう、などの方策も考えられます。未開拓の分野ですので、誰かやってくれないかと思います。
 また、民博モニター制度を導入するアイデアもあります。例えば、チラシの駅貼りやポスターを配る、新しいものに差し替えるなどの広報活動を支援する組織を各地に作ってはどうか、と思っています。
 わたしも民博に来てから、それぞれに才能のある多彩な人達の居ることがわかってきました。人間文化研究機構のなかでも、いろいろな意味で先進的だと思います。これを生かした更なる発展を望んでいます。
-三〇年を踏まえた展望をお話いただき、ありがとうございました。

管理部総務課総務係の中原 栄作さんに聞く
-中原さんは最初から三〇周年記念事業の事務的な中心としてかかわってこられましたね?
 館長は、二〇〇六年度中に委員会を作って、二〇〇七年の初めから事業を始めようと考えておられました。組織としては、開館三〇周年記念事業推進委員会、その下に開館三〇周年記念事業推進企画実施部会を置く。それらの事務は総務課が担当する、という仕組みで進めるという原案に基づき、委員会規則を制定しました。推進委員会は田村克己副館長のもと二〇〇六年九月に始まり、事業の方針として、開館三〇周年を記念し、民博や広く文化人類学・民族学の関連研究分野の展望を見据えた構想を含む事業として実施するものとするという理念のもと、記念事業は、記念式典および記念事業推進上必要な事業とし、従来からの定期事業については、記念事業としての内容の充実を図り、実施することを原則とすることとしました。そして、推進企画実施部会は小林繁樹部会長のもと一〇月から活動を始めました。そこでは、中心となる事業としての記念式典、館長対談のほかに、ボトムアップ的に新しい企画を考えることになり、館員全員からアンケートによって提案を求め、そのなかから実施可能なものを検討していくことになりました。その他に、定例的におこなっていた学術講演会、シンポジウム、特別展、企画展、みんぱくゼミナール、映画会、研究公演などについても展望を見据えた企画をたてていただき、記念事業として位置づけることとして、さまざまな事業を進めたわけです。
 その結果、二〇〇七年一月から二〇〇八年三月までのあいだに、五〇の事業、「みんぱくゼミナール」、「みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう」のそれぞれの回もカウントしますと一二六の事業をしたことになります。これは、一〇周年、二〇周年の際に比べると二倍、三倍の規模ですから、入館者数の増加にも寄与したと思います。多くの事業をおこなったので、メディア取材も多かったし、広報企画室も積極的にメディアに働きかけて、テレビの特別番組も組まれましたし、ラジオ番組を開拓したりしました。
 記念式典は、開館記念日である一一月一七日の週におこないました。秋篠宮同妃両殿下には、この式典のご臨席のためだけにご来阪していただけましたし、両殿下にお褒めいただき、また、参加者にも好評で、無事実施できました。
 一一月一八日に開催した館長対談では、解剖学者の養老孟司氏を迎え、四五〇席の講堂が満席となり大盛況でした。
 新しい事業の企画としては、アンケートの結果から取り上げましたが、実現の可能性については、提案者に加えて、関連する教員と担当部署に広げたワーキング・グループを立ち上げて検討をお願いし、そこでいくつかの提案を合体させるなどの工夫もしました。「みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう」はまさにそのパターンでした。
 これは、土日・祝休日にもかかわらず、総研大の院生や担当部署の職員のサポートを受けて実施できました。平均参加者は三〇~四〇名、このくらいの数字だからこそ、気さくな話ができ、質疑応答も盛んで、ざっくばらんな交流をおこないました。入館者、研究者の双方に好評だったのは、担当課としても嬉しい事業となりました。そこで、今後も継続実施していくことになり、広報企画会議のもとにある広報事業専門部会で具体策が検討されています。
 他にも新しいかたちでおこなった事業としては、オーストラリア学会、古代アメリカ学会を開館三〇周年記念事業として開催しました。また、開館記念日に合わせて、館内の六ヵ所で二四〇日前からおこなった「カウントダウン・カレンダー」も、館員の意識が高まり、入館者の期待も高まる効果があったのではないかと思います。
-反省点はありますか?
 そうですね、市民参加型事業はたくさんありましたが、市民に具体的に何かを募るような事業、例えば、一〇周年のときにおこなった、写真コンテスト・写真展「世界の民族-その暮らしと住まい」、体験記募集「わたしの異文化体験」、二〇周年のときの「あなたからのメッセージ展」(写真コンテスト作品展、イラスト展)などのような事業が十分に展開できなかったのは残念です。市民参画の催しもできたら良かったと思います。ほかに、『音楽の現場-民博コレクションから』というDVDの頒布はしましたが、一般に市販するような開館三〇周年記念のあらたな出版物が発刊につながらなかったのも心残りな点でしょうか。
-全体的な感想としては?
 並行しておこなわれた『国立民族学博物館三十年史』の発刊や、『みんぱく実践人類学シリーズ』全八巻の刊行開始、日本文化人類学会との連携事業に関する協定書の締結、イントロダクション展示や、レストランの大規模改修、あるいは館内通路等の整備も、開館三〇周年という大きな節目をえてできたものだと思います。スローガン「地の先へ。知の奥へ。」も難産の末に決まりましたが、その過程でいろんな意見が出て、教職員の方々の民博に対する思いや愛着を引き出してもらうきっかけとなり、その意味でも良かったと思っています。また、すべての事業を教職員全員の協働で生み出したことが印象に残ります。
-この経験や記録をどう残していくのがいいでしょう。
 個々の事業については、各担当課室で確実に記録や資料を保存しておき、アーカイブズ資料として総務課が取りまとめていきたいと考えています。写真類が散逸しないような対策も考えておく必要があります。
-五〇周年をめざしたアーカイブズ化も考えるべきでしょうね。ありがとうございました。
 
 

モノ・グラフ
中国漢族の対聯(ついれん)
 中国の対聯(ついれん)は家、宮殿、寺院、店などの建物の扉や柱に掛けたり貼ったりする対句のことであり、古典の詩歌と韻文から進展変化してきたものである。対句の字数には特に制限はないが、ふたつの句の字数は必ず同じである。そのうえ、押韻、対照・強調の効果を与える修辞法が用いられる。対聯は歴史が長く、漢族文化の顕著な特長のひとつである。
 対聯は使用する目的、時間と場所によって春聯(しゅんれん)、寿聯(じゅれん)、喜聯(きれん)、挽聯(ばんれん)などに分類することができる。
 春聯は旧暦のお正月に新春の到来を祝うために家の扉の左右に貼るめでたい対句のことである。文献に記録されたもっとも古い春聯は、五代十国時代(九〇七~九七九年)後蜀(ごしょく)皇帝孟昶(もうちょう)の「新年納余慶(新年に前年の喜びを受け継ぎ)、佳節号長春(このすばらしい祭日を長春とよぶ)」という五言対句であることが通説である。宋代までの春聯は、魔よけになると信じられていた桃の木の板に書かれ、「桃符(とうふ)」とよばれていた。
 春聯が桃の板から現在のような縦長の赤い紙にかわったのは宋代である。そして明代までの春聯はおもに皇族や士大夫のあいだで流行っていたが、明代になって、明の太祖である朱元璋(しゅげんしょう)が力を入れて普及に努めたことで、春聯は初めて民間で流行りはじめた。
 春聯はそもそも手書きのものであり、学のある人が新春を迎える喜びと来る年に対する期待を対句に託すのである。現在、春聯を書ける人の少ない田舎では、大晦日になると、学のある人が村人のために大量の春聯を書いて配る。都市部では手書きの春聯よりも印刷されたものの方が多い。
 漢族の人びとは大晦日には、家の玄関、寝室、書斎、各部屋の入り口だけではなく、倉庫、家畜の小屋、大型農具まで春聯を貼る。次の正月まで貼ったままにするのがしきたりである。また、さかさまに「福」を貼るのは、さかさまを意味する「倒」と「到」(来)の発音が同じことから「福」をさかさまに飾ることによって、来る一年幸福が我が家に訪れるように祈願するのである。
 春聯は新春の喜びを祝うためのものなので、不幸のあった家は、亡くなった家族を偲ぶために三年間春聯を貼らないところもあれば、一年目は白、二年目は緑、あるいは紺色、三年目は黄色、四年目から赤の春聯を貼るところもある。
 このほかに長寿を祝う寿聯、新婚や新築と引っ越しを祝う喜聯もある。
 結婚式の喜聯は、結婚式場と新郎新婦の家の玄関と寝室の入り口に貼られ、にぎやかな雰囲気を作っている。家に貼る喜聯は一年間貼りっぱなしである。その内容は新婚の喜びと祝福、結婚する両家の家柄、新郎新婦の才能、人柄と容姿などをたたえるものが多い。結婚式のほかに漢族の人びとは新築の家に引っ越すときや店を開店するときも、吉の日を慎重に選び、新しい家と店の入り口に新築と開店の喜びを祝う喜聯を飾るのである。
 右記の春聯、寿聯、喜聯のほかに、挽聯もある。挽聯は弔文、挽歌から変化してきたものであり、故人を偲んだり、故人の人柄などを賛美する対句を白い紙に書いて、通夜や告別式の会場に貼る。雲南保山地域の漢族の人びとは親が亡くなった場合、家の扉に挽聯を貼る。親を失った深い悲しみ、親の恩情、親の苦労したことなどを切に訴えた挽聯は、一年貼り続ける。
 こうして、漢族の人びとは、正月を迎える喜びや新年への期待、結婚の喜び、家族を失った悲しみ、家族の秩序と孝行の精神を漢字の対聯に託している。対聯は漢字文化の結晶のひとつであるといえよう。漢族の人びとは対聯を家の内と外に飾ることによって、自分たちの喜怒哀楽をあらわしているとともに、受け継いでいる文化的シンボルと価値観を表象し、伝承し、伝播している。そして、多民族共生の中国では、対聯の漢字文化はチワン族、ミャオ族、満族、ぺー族などの少数民族のあいだにも受容され、共有されている。



地球ミュージアム紀行  -生態博物館/中国-
中国広西の「生態博物館」
-九九〇年代から、広西や貴州で「生態博物館」が建設されている。もとはフランスで一九七〇年代に提唱されたエコ・ミュージアムを起源とし、それを中国の実情にあうように応用したものであるといわれる。中国のそれは、当該地域の文化や景観を保護するだけでなく、住民の経済生活を改善することが大きな目的である。
 村落をそのまま博物館とし村民が文化の保護に参加する試みは一九九〇年代にノルウェー政府の協力をえて貴州で着手された。雲南でもその構想を応用した試みが一九九〇年代末に着手された。広西では貴州の経験を受け継いで、自治区文化庁が、衰退や消滅に直面している民族の伝統文化を保護し発展させ広西を「民族文化財大省」とする構想をたて、多額の投資をし、二〇〇四年に南丹県の白_瑶(バイクー・ヤオ)生態博物館が竣工した。以降、三江トン族自治県、靖西県に建てられた。
 靖西県は人口五六万人のうち九九パーセントがチワン族で、ベトナムに接している。県庁所在地にほど近い旧州が生態博物館とされた。靖西県は「小桂林」と称されるカルスト地形の風光明媚な地で、高床式住居や歌掛けなどチワン族の文化が濃厚に維持されている。操り人形劇や中秋節の灯篭(とうろう)祭りも近年注目されている。民博ではもっか開催中の特別展「深奥的中国―少数民族の暮らしと工芸」で高床式住居の居住空間を再現してチワン族の暮らしと文化を紹介しているが、そのおもな舞台は靖西県である。旧州は一九世紀初まで県の政治の中心地で、石造りの家屋が並ぶ風情のある町だ。ふるい建物を修復して町並みを整備し、石畳の道を敷設した。町にはチワン族の伝統的な工芸である刺繍をほどこした繍球(しゅうきゅう)を製造販売する工房兼商店が並ぶ。木彫の工房や絵画のアトリエなどもある。村の入り口にある展示場ではチワン族の文化が実物とパネルで紹介されている。靖西県は観光スポットが多いこともあって、二〇〇五年八月のオープン後、観光客が増えつつある。
 現在、広西ではさらに七ヵ所の生態博物館建設を進めている。それは、南丹県で道路を整備し飲用水を供給するなど住民に役立ち、貧困から抜け出すのにそれなりの役割を果たしつつある。
 しかし、反面、問題点をも抱えている。たとえば、南丹県では多くの観光客が訪問するには交通が不便であり、結果、住民が出稼ぎに行かねば生計を維持することができないこと、また貴州の鎮山のように、交通の便はよいが、観光業と過度に結びついて、土産物を売る商店や「農家楽」(農民レストラン)が無秩序に林立して俗化してしまっているところもある。文化を維持しつつ経済発展をめざすことは実際には問題点が多いのである。生態博物館の今後の動向が注目されるところである。


表紙モノ語り
ペー族の「焙(ほう)じ茶瓶」
焙じ茶用焙じ容器(標本番号H209035、高さ/5.7cm 幅/8.4cm 奥行/7cm)中国
 これは中国雲南省大理盆地に住むぺー族が愛飲するお茶を焙じる用具である。大きさやふくらんだ胴体部分の曲線に多少の違いがあるが、現地で使われているのはどれもほぼ、このようなかたちをしていて、高さは大きくても一〇センチメートルを超えることがない。素焼きのもあるし、釉薬(ゆうやく)がかかっているのもあるが、ごく素朴な姿をしている。
 日本の焙烙(ほうろく)と異なるのは、このなかでお茶を焙じると同時に、急須の役割も果たす点だ。口のところに橋のように一本わたされた部分で、注いだときに茶葉が出てこないようになっている。中国語では「_茶罐(カオチャーグアン)」とよばれていて、「焙じ茶瓶」と訳せる。
 ぺー族の家庭には、正方形で中央が円形にくぼんだ金属板状の炉がある。木炭や薪を燃やし、五徳(ごとく)をその上に置いて鉄瓶でお湯を沸かしながら、頃合いを見計らって五徳の脚の内側あたりにこの茶瓶を置いておく。なかにはぺー族の人びとが日常的に飲む「シ眞緑(ディエンリュー)(雲南緑茶)」の茶葉が入っている。火の加減を見ながら、時おり取っ手のところをもって軽く上下させ、茶葉に均等に熱が伝わるようにする。お湯が沸き、あたりに茶葉の芳ばしい香りが漂ってきたとき、茶瓶は炉の端に置かれ、そこに煮えたぎったお湯が注ぎこまれる。その瞬間、高温になった内部で茶葉がお湯もろともシューッという音を立てて吹き上がる。それが「雷響茶(レイシァンチャー)」とも言われる所以である。ぺー族はその小爆発が沈静化するのを待って、小ぶりの茶碗にお茶を入れて、味わう。
 ぺー族は今でも焙じ茶を好み、冠婚葬祭では緑茶ではなく、必ず焙じ茶を甘いお茶とともに振る舞う。しかし、最近ではこのような少人数用の焙じ茶用具で日常的に焙じ茶をたしなむ姿は少なくなった。かつては特に老人たちが家でこのお茶の時間を楽しんだ。うまく焙じて入れるのは一種の修練だ、という言い方もしていた。

万国津々浦々
パリの春節
朝からパレードの練習
 パリに短期滞在する際によく泊るマレ地区の小さなホテルがある。部屋は狭くてあちこちがたがきているし、予約の際の要領が悪いので、違う宿を開拓しようといつも思う。でも、逆に、改装中のドアが廊下に立てかけたままだったり、宿の女主人が客のいるのも構わず、自分の母親と大喧嘩をしているといった混沌とした雰囲気が醸し出すパリの下町の魅力はすてがたい。宿の「看板娘」は、器量は悪いが愛嬌のあるブルドッグのマドモワゼル・ルルである。ロビーの片隅に置かれた、結構豪華な小型の長いすで、ぐぉー、ぐぉーと、昼夜いびきをかいて寝ている。口の脇から舌がはみ出た寝顔がなんとも愛くるしい。
 そんなルル嬢に惹かれて、結局またそこに泊ってしまった二月のある朝、窓の外でどんしゃらしゃらと賑やかな音がするので目が覚めた。何事かと思い窓をあけてみると、ピンクや黄色の鮮やかな衣装を着たアジア系の男女一行が、全長二〇〇メートルもない路地全体を陣取ってパレードの予行演習を始めていた。先頭のリーダーが振り回す旗には「法國華僑華人會」の漢字が見える。近くの広場に赤い提灯がかかっていたので、春節(旧正月)の行列の振り付けを練習しているのであろう。パリの中華街は左岸のイタリー広場周辺にあるが、右岸マレ地区の服飾関連の問屋街にも華僑が進出してきている。この辺でも春節の「巡遊」をするようだ。

植木鉢でひと悶着
 近所のカフェで朝食をとった後、宿に戻ってきてみるとロビーがえらく騒がしい。警察官二人を取り囲んで、ホテルの女主人、その息子、そして女主人の母親(ママン)である老マダムが早口のフランス語で何やらまくし立てている。ルル嬢はいつになく興奮していて、警官の足の周りをぶんぶん鼻をならしながら歩き回っている。
 空港行きの送迎シャトルが来るまで、ロビーに座って彼らの陳情に聞き耳をたてた。どうもパレードの練習に腹を立てた客が上階から投げ降ろした植木鉢が、行列とはまったく関係のない通行人をあわや直撃しそうになり、その歩行者がホテルに怒鳴り込んだようだ。そして受付が混乱しているあいだに、くだんの客はさっさとずらかってしまい、息子が追いかけたが、近くのアパルトマンの中庭に消えてしまい見失った、ということだ。さらによく話を聞いていると、投げたのは宿泊客本人ではなく、客とともに一夜を明かした人物のようだ。しかも宿泊客もその一夜の伴も男性のようだ。そういえば、この辺りにはホモセクシュアル向けの飲食店や本屋が多い。
 植木鉢が投げられた部屋にまだいるはずの客を何故事情聴取をしないのか、そもそも連れ込みが許されるのか、と不可解に思いつつ傍観していると、「その人はきっと、あのちっちゃな中国人たちが嫌いなのよ」、と上品な白髪のママンがやんわりと言った一言がチクっと耳にささった。同じ東洋人のわたしとしては、目の前で「レ・プチ・シノワー(ちっちゃな中国人たち)」と言われては、「マダム、それは人種差別的発言でございますわよ!」と反論したくなるが、事はさらに収拾がつかなくなるので聞き流すことにした。
 そのうちミニバスが迎えに来てしまったので、どのみち収拾がつきそうにないこの「コメディ・フランセーズ」の一幕を後にしてホテルを去った。ルル嬢だけが申し訳なさそうな目つきで見送ってくれた。


時論 新論 理想論
核と戦ったパラオの女性伝統首長
三田 牧(みた まき)本館機関研究員
伝統首長として働くこと
 パラオのガブリエラ・ニルマンさんが、二〇〇七年一〇月に亡くなった。彼女はコロール(現在パラオ最大の人口を擁する州)における女性第二位の伝統首長「ミライル」のタイトルを有していた。日本統治時代の一九二二年に生まれ、公学校で教育を受けた彼女は、わたしがお会いした二〇〇六年には耳が遠くなっていたが、大きい声で話す日本語は明快だった。
 パラオの村々には男性の伝統首長と女性の伝統首長が(理念的には)一〇名ずつ存在する。第一位から第一〇位までのタイトルは、それぞれ特定の母系出自集団(カブリール)内で継承される。ガブリエラさんは母方の曾祖母が亡くなったとき、彼女が有していた「ミライル」のタイトルを引き継いだ。パラオでは、伝統首長に選ばれた者は人びとの福利のために働くことが期待される。「みなのために働くからこそ尊敬される」、それがパラオのリーダーである。ミライルであるガブリエラさんが、身の危険を顧みず取り組んだ活動があった。彼女は反核運動のリーダーの一人だったのである

守ろうとした尊いもの
 第二次世界大戦後、国連の信託統治領としてアメリカに統治されていたパラオは一九八一年に独自の憲法を発効させた。それは非核条項を有する画期的な憲法だった。しかし信託統治を終了させるにあたりアメリカとの交渉からうち出された政治形態は「アメリカの自由連合国」というもので、そこでは一五年にわたる経済援助とひきかえに五〇年にわたってアメリカがパラオの土地を軍事利用する権利が認められていた。土地の軍事利用にあたっては核がパラオにもち込まれる可能性が出てくる。自由連合協定が抵触する憲法の非核条項をめぐって、アメリカの思惑とパラオの政治家や有力者たちの思惑が交錯するなか、核と土地の軍事利用に真っ向から反対したのがガブリエラさんをはじめとする女性たちだった。
 核兵器の危険性をガブリエラさんが知ったのは、ある国際会議でモリタキ先生という長崎の被爆者に出会ったことがきっかけだった。ガブリエラさんはこう話した。
 「(モリタキ先生は)原子爆弾落ちたときね、その明かりだけ見て、目玉悪くなって、かたっぽの目玉はタマ(義眼)入ってる。でも、このわたしたちの島は小さいでしょ。住んでる方も少し、少しだけでしょ。だから(もし核兵器が入ってきたら)本当に苦しい。でも、それで、よくみんなのことを助けなきゃだめ。で、わたしたち、とくに女の方ね、(戦って)とても苦しかった」
 パラオの島は小さいが、人びとはその土地に根付いた暮らしを営んできた。この土地を失って、パラオ人がパラオ人らしく暮らすことはできないだろう。まして核などという恐ろしいものをもち込んではならない。広島や長崎、そしてマーシャルのようになってはならない。そのような思いから、ガブリエラさんは運動の先頭に立った。それが「ミライルとして人びとのために働く」ことだったのである。
 紆余曲折の末、パラオはアメリカと自由連合協定を結び、一九九四年に独立を果たした。今日では援助金に依存した暮らしが浸透し、土地に根ざした暮らしや社会が崩壊しつつある。大国に対峙(たいじ)し揺るがなかったミライルの死に際し、彼女が守ろうとしたものの尊さを思う。

外国人として生きる
オレの歌
北山 夏季(きたやま なつき)大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程
ラップの結婚祝い
 彼のことを知ったのは、二〇〇四年のある春の日のことである。そのころ、スタッフとして参加しはじめたばかりの「NGOベトナム in KOBE」(神戸市長田区)の事務所で仕事をしていると、代表のハ・ティ・タン・ガー(以下、ガーさん)が「これ見て!長男が作ったラップ。彼がこの前の長女の結婚式で唄ったのよ」と一枚の紙を見せてくれた。それにはこう書いてあった。
《弟から祝いのラップ》 まずは、アッキおねえちゃんおめでとう!/ゆびわに誓って 今結婚/二人で向かう 人生のレール/頑張れよ 僕から送るエール/今日という日を 皆で祝え/しんせんな日 喜び笑え/生きていくなかでいちばんでかいイベント/これからも二人でしっかりせんと/ウエデングドレス着て あね/今日はいちだんときれくなったね/夫 アッキもカッコよくて/ずっと仲良し腕組んで/いっぱいっぱい送りたいことば/二人で開けよう 未来のドア/愛し合い 永遠のとわ/一生懸命子どもの世話(以下省略。原文のまま。)
 読んだ瞬間、胸が熱くなった。弟から姉への愛情あふれる、素直な祝いのメッセージである。ところどころ韻を踏んでいて、ことばを選びながらも姉に思いのすべてを伝えようとする姿が頭に浮かんだ。まだ彼に会ったことがなかったが、詩の内容や、ガーさんから彼が毎日詩を書いているという話を聞き、繊細な心をもった青年なのだろうという印象だけがあった。
 その後、ガーさんの隣で仕事をしながら、世間話をするうち、彼がおとなしく机に向かって詩を考えているようなタイプではなく、むしろやんちゃで、それが過ぎてときには大ケガをして親の手を焼かせる息子としての面が見えてくるようになった。それから彼が思いつくままに詩を書き、バイトをしながら、ときに周囲をヒヤっとさせるようなこともしているということを小耳に挟みながら、何ヵ月かが過ぎていった。

在日ベトナム人二世、MCナム
 二〇〇五年、NGOベトナムが主体となって開いた旧正月を祝うつどいで彼は初めてわたしの前にあらわれた。そこで彼は初めてベトナム難民の子ども、在日ベトナム人二世としての自分をさらけだすラップ曲「オレの歌」を観客に披露した(「オレの歌」を参照)。
 「彼」、ブ・ハ・ベト・ニャット・ホアイ・ナム(以下、ナムさん)が「オレの歌」を作ったのは、一七歳のときだ。ナムさんは一九八一年にインドシナ難民として来日した両親(上述のガーさんとその夫)のあいだに五人兄弟の長男として神戸市長田区で生まれた。成長の過程で、ベトナム人であることを悩み、ときには日本名を名乗って日本人になりきろうとしたこともあったようである。しかし、詩のなかで「オレはオレのことをオレの歌で証明」と言っているように、ナムさんはラップという自分の存在を確認し表現する手段を獲得した。彼は各地のイベントやライブハウスで「オレの歌」を中心にパフォーマンスをおこなってきた。そうした活動を続けていくうちに、在日ベトナム人二世のラッパー、MCナムとしてメディアでも取り上げられ注目されるようになっていった。

在日ベトナム人二世、MCナム
 二〇〇七年(一九歳)の秋、ナムさんは突然ベトナムに留学した。両親の母国へ「旅立つ」前、「ベトナム語でラップを作れるようになりたい」と言っていた。そのことばのとおり、今、ナムさんはホーチミン市にある大学でベトナム語を勉強しながら、ベトナム語ラップの創作に励んでいる。二〇〇八年に入って、いつものようにNGOで仕事をしていると、四年前と同じようにうれしそうな顔をしたガーさんが「これを見て!」と何枚かの紙を手渡してくれた。ナムさんからの手紙とベトナム語のラップ(詩)だった。手紙にはベトナムでの一日の生活、授業の様子、学校のイベントでラップを発表したこと、恋の話などがベトナム語でびっしり書かれている。全文ベトナム語の手紙を息子からもらったガーさんのうれしさが伝わってくる。「ベトナムが楽しくて仕方ないみたい。こんなに早くベトナム語が書けるようになるなんて!今までベトナム語で話しかけてきてよかった。日本に帰ってきたとき、ベトナム語で彼と話すのが楽しみ」と目を細めながらガーさんは言う。
 ふと、なぜベトナム留学をしようと思ったのか、もう一度ナムさんに聞いてみたくなった。ベトナム留学以降、連絡が取りにくく直接たずねることはできない。そういえば、ちょうど彼が送ってきたばかりのベトナム語ラップに次のような一節がある。「僕は誰?僕は僕!!僕はMCナム、僕は福山翔」(「僕は日本のベトナム人」より)。確かな真意はわたしにはわからないが、少なくともナムさんは毎日ホーチミン市内を飛び回り、「ベトナム」を体いっぱい吸収して、自己の可能性と新しい自分の表現手段を見つけようとしているにちがいない。狭い日本をとびだし、一段と成長したくましくなった彼に、次に日本で出会うとき、どんなラップで彼自身を表現してくれるのか楽しみである。

<オレの歌>
(全文から抜粋)
オレの名前はVu Ha Viet Nhat Hoai Nam/パパとママとベトナムと日本とマイネーム/小学卒業後 オレの名は翔と書く/ベトナム人がイヤでなりきった日本人/日本名にこの顔 誰もわかりやしない/ただ本性がバレるのがイヤでイヤでたまらない/B-Boyという言葉にひかれ でかめの服を購入/日本人ラッパー マネてオレもなったラッパー しかし/ある日気づいたマネばっかでダサいし/逃げ回ってばかり ベトナム人をかくし/ある日言われた オレはNamなんだと確信/その日から日本に住むベトナム人ラッパー/だが 日本人になりきりすぎて大切な母国語を失っちまったー/母国に帰ってもオレは日本人だと言われる/この国で生きる大変さも知らないで/お金がないから物とって捕まる/国籍がないから 強制送還できず 一生出れず ないものがないから/この国にいても オレに国籍はない どの国にいてもオレに国籍はない/オレの血は確実に日本より西のものだ/そうなればべつにオレに国籍はいらない/オレはオレのことをオレの歌で証明

歳時世相篇 (1)【入社式】
変わりゆく日本企業の風物詩
 会社では四月一日に一斉に入社式がおこなわれる。官庁の辞令交付も同様である。小学校に「ピカピカの一年生」が全員顔をそろえるのはもう少しあとだが、この時期、会社も官庁も新人をむかえてスタートをきる。世界でもめずらしい日本の春の風物詩といってもいい光景だが、昨今、そこにいくつかの異変が生じている。
くりあがる入社式
 まず四月をまたずに入社式をすませる会社が出はじめた。有名なのはセブン&アイ・ホールディングスであり、三月の中旬にすませてしまう。入社式をくりあげるのは、新人研修を早急に開始するためである。卒業生をブラブラさせておくのはもったいないといわんばかりだ。新入社員は唯一卒業式に出ることだけがゆるされる。おわれば即日、すぐにもどって、ふたたび研修の日々が続く。
 入社式そのものは四月におこなっても、それに先立って実質的な新人研修に入る会社も増えている。たとえば二月一日から週三日の研修を課す会社があるが、内定者にとって、卒業旅行と称する長期の海外旅行は絶望的となる。

訓示で謝罪するトップ
 入社式の当日の夕刊、あるいは翌日の朝刊に、新聞各紙はこぞって有名会社の会長や社長のあいさつをとりあげる。訓辞のなかに会社の現状認識が凝縮され、あるいは企業風土が誇示され、読者の関心をひきつけるからである。しかし、最近は、事故や不祥事をおこした会社の入社式をあえて報道する傾向が見られる。昨年の紙面からひろってみよう。
 尼崎で福知山線脱線事故をおこしたJR西日本では、入社式に先立ち、犠牲者に黙祷がささげられた。そして事故後改定された「企業理念」と「安全憲章」が全員で唱和された。番組の捏造問題でゆれた関西テレビでは、引責辞任を近々発表する見通しの社長が「皆さんにとって大事な人生の節目に大きな問題を引きおこし、心配や不安を与えて申し訳ない」と沈痛な面持ちで語っている。

強調される企業の社会的責任
 トップのあいさつで近年とくにめだつ傾向は企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility)である。市場経済優先主義のゆきすぎに対する反省が企業の社会的責任の問題にはねかえっている格好だ。CSRはアメリカではエンロン事件がひとつのきっかけとなり、日本でも雪印乳業などの不祥事で浮上した。経営学でいうところのゴーイング・コンサーンとは継続事業体としての社会的責任だが、CSRは企業の経営倫理や遵法(じゅんぽう)精神にかかわっている。とくに経営トップの責任が重いといわれる。
 やはり去年の訓示からひろってみると、キヤノンの社長は「社会の規範となる行動を」と述べ、東レの社長は「法令順守でしっかりした心構え」を説き、伊藤忠の社長は「嘘をつくな、悪いことをするな」と単刀直入に切り込んでいる。日立の社長は「よき会社人である前によき社会人であれ」と呼びかけ、ソフトバンクグループの代表は「今日をきっかけに社会を支えていく一員として自分を高めていってほしい」とうったえた。

リストラされる入社式
 かつてソニーの故盛田昭夫会長は入社式でかならず「早期退職のすすめ」を弁じていた。ソニーが自分の希望や体質に合わないと感じたら、すぐに退社すべしと力説したのである。そのほうが個人の幸福にとっても、会社の経営にとっても幸せだとの判断からだ。しかし同時に、退職のとき、人生のもっとも大切なときをソニーにささげてよかったと思えるようになってほしいとも述べていた。
 昨今、IBMは「就社」ではなく「就職」であることを徹底させるため、入社式ということばを用いず、「スプリング・キックオフ」という名称を使うようになった。春のキックオフで会社のゲームがはじまるという想定だ。
  入社式のない会社も存在する。ライブドアのように新卒一括採用をしないところに入社式がないのは当然としても、大手でも入社式をやめたり、その存続を検討したりする会社が出はじめている。財政難にあえぐ大阪市は昨年から五年間、入庁式を凍結した。一部専門職と身障者の採用をのぞき、新入職員を採らないからである。日本独特の伝統である春の式典は今や岐路に立たされている。企業も官庁も、入社式や入庁式につめたい視線を浴びせはじめているからである。

生きもの博物誌 【リュウキュウイノシシ】南西諸島
イノシシと暮らすシマ
大西 秀之(おおにし ひでゆき)同志社女子大学准教授
奄美のイノシシ猟
 鹿児島県の奄美大島において、フィールドワークをしていたときのことである。ふと、林道入口にある看板が目に入った。それは狩猟者に対して注意を呼びかけるものであった。それまでにも、何度か調査のために訪れていたはずの場所であったが、そうした看板を気に留めたのは、そのときがはじめてであったように思う。だが、よくよく注意してみると、そこかしこに狩猟に関係する看板が掲げられていることに遅まきながら気づいた。
 この経験がきっかけとなって調べてみたところ、シマには、かなりの人数の狩猟者がいることがわかった。そして、狩猟の対象となっているのが、もっぱらイノシシであることを知った。
 奄美大島における「シシ猟」-シマの人は一般にイノシシを「シシ」とよぶ-は、現在、銃猟と罠猟によっておこなわれている。もっとも、銃猟であれ罠猟であれ、シシ猟をおこなうシマの人びとは、イノシシの生態・行動に関する豊かな民俗知識をもっている。たとえば、イノシシのとおり道を知ることは、猟の成否を左右するため、狩猟者たちは「シシ道」の把握に余念がない。ただ、そうした知識のなかには、「ほとんどのシシは右利きであるから、右前足に掛かるように罠を仕掛ける」といったような行動学的に裏づけられないものも含まれている。とはいえ、それもまた、シシ猟のなかで継承されてきた奥深い民俗知識にほかならない。

イノシシの両義性
 イノシシ猟は、シマの暮らしに深く根づいた営みである。何よりも、イノシシの料理は、シマでは御馳走のひとつである。このため、奄美大島の中心である名瀬の市街では、シシ料理を出す飲食店を少なからず目にすることができる。
 もっとも、こうした食としての需要以上に、シシ猟の多くは、害獣駆除という名目の下におこなわれている。実際、イノシシによる農作物被害が、奄美大島の各地で頻繁に起きている。このような被害を裏づけるように、イノシシから農作物を守るための「シシ垣」がシマのあちらこちらに設置されている。イノシシは、山の恵みであるとともに、田畑を荒らす招かれざる厄介者でもあるのだ。
 ただその一方で、シマのイノシシは、南西諸島のみに生息する固有種であり、現在、環境省のレッドデータブックに記載される絶滅危惧種となっている。田畑を荒らす害獣でもあり、絶滅が危惧される保護すべき希少種でもあるイノシシは、シマの人びとにとって非常にアンビバレント(両義的)な存在である。

「環境アイコン」としてのイノシシ
 このような両義的なイノシシのあり方は、今日、シマが直面する環境保護という課題にも繋がっている。とりわけ近年、奄美大島は、生物多様性を保持する豊かな自然を背景として世界遺産への登録を模索しており、環境保護は急務な課題となっている。
 しかしながら、環境保護の取り組みは、よそ者が考えるほど簡単なものではない。離島であるシマの暮らしを維持しつつ、どのように環境を保護して行くかは、まだまだ手探りの状況が続いている。
 イノシシを例に引くならば、農作物が被害に遭うのを我慢してでも、希少なシマの固有種を守るために狩猟を規制できるか、という問題となる。より率直に言い換えるならば、イノシシ-ひいては環境-を守るために、シマの人びとに不利益や犠牲を強いることができるか、というシビアな問いかけとなるだろう。そういった意味で、イノシシは、まさにシマが抱える環境問題を意味する「アイコン(表徴)」とみなしうる存在といえよう。

リュウキュウイノシシ (学名:Sus. scrofa riukiuanus)
リュウキュウイノシシは、二ホンイノシシ(Sus. scrofa leucomystax)の南方亜種で奄美大島、徳之島、沖縄本島、石垣島、西表島に分布している。それぞれ地域による違いはあるが、おおむね体長90~110cm、体重40~70kgと、二ホンイノシシに比べるとかなり小型である。生態的・行動的特徴は、二ホンイノシシとほとんど差異はないが、繁殖期が春と秋の2回ある。これは、生息域が亜熱帯であるためと考えられている。なお、二ホンイノシシとの系統関係については、同種が島嶼化で小型になったものとの見解が一般的であるが、頭骸骨の形質などから原始的な別種とみなす見解もある。


フィールドで考える
呪術が信じられている?
ヴァヌアツの呪術
 今ではそうでもなくなってきたが、文化人類学では、特定の地域で古くからおこなわれてきたり、伝えられてきたりしたものごとを、研究の対象にすることが多かった。そんなものごとのひとつに呪術がある。と言うと、わら人形に五寸釘を打ち込む呪いの術などを思い出す人もいるかもしれない。たしかに、相手に害をおよぼすために使われるそうした術は、呪術のなかに含められてきたものだ。
 わたしのフィールドである南太平洋のヴァヌアツでも、呪術に関する話を耳にすることがある。使い手によって堅く秘密にされているので、詳しいやり方はわからない。噂によれば、人骨や動物の骨などでできた呪物を食べ物に入れたり、木の洞に相手の食べ残しを入れて呪文をかけたり、イヌやコウモリなどに変身して相手に近づき、素手で腹を割いて腸を引きずり出すなど、いろいろな方法があるらしい。「わら人形に五寸釘」と同じように何やら不思議なものが多く、人びとのあいだでもこうした術は、常識的には考えられない非(超)現実的なものととらえられている。英語では呪術をマジックと言うけれども、まさにそれだ。
 呪術の話を耳にするのは、ヴァヌアツ人の友人たちと雑談をしているときなどが多い。ただ、そのような機会がなくとも、呪術に関する話題に接することのできる場合がある。たとえば、地元の新聞には、呪術に関する出来事やエピソードを取り上げた記事が(たまに)載ることがある。首都のポートヴィラでは昨年、ふたつの島の出身者たちによる死者の出るような争いが起きたが、呪術の被害をめぐるもめ事が引き金になったことが、地元紙だけでなく海外のニュースでも取り上げられた。。

都市化、キリスト教化
 この調子で書いてゆけば、「ヴァヌアツの人びとのあいだでは呪術が信じられている」と思う人も出てくるだろう。なかには、「呪術が信じられている」ことから、「ヴァヌアツの人びとは未開の世界に暮らしているのだろう」と想像する人もいるかもしれない。しかし、実際は違う。
 たとえば、国内には先の争いの舞台になったポートヴィラのような都市がある。ポートヴィラは人口三万人ほどと、日本の基準から見ればかなり小さい。それでも、最近は人口がどんどん増えている。小さいとはいえ、銀行やスーパーマーケット、ネットカフェ、レストランなど、都市にありそうなものはだいたいそろっている。また、ポートヴィラはもちろん、電気、ガス、水道のない離島でも、たいていのところには学校がある。とくに小学校の教育はかなり普及している。
 小学校の教育と同じくらいか、それ以上に行き渡っているものと言えば、キリスト教だ。ヴァヌアツでは一九世紀の前半に宣教師が布教活動を始めた。島々が二〇世紀の初めにイギリスとフランスの植民地になった後も、キリスト教各派は活動を続けた。その結果、今では人口の九割がキリスト教徒になっている。学校のないようなところにも教会はある。
 このように、ヴァヌアツでは都市化やキリスト教化などが進んでいる。そこは「未開の世界」ではない。けれども、呪術のことも話題になる。そんな状況を前にして、文化人類学者ならば、「呪術が信じられている」わけをうまく説明するのかもしれない。そして、「呪術とはこれこれこういうものだ」と結論づけるかもしれない。

微妙な反応
 しかし、である。「呪術が信じられている」と、さらっと言って済ませるだけで果たして良いのだろうか。フィールドで呪術をめぐる人びとの反応や対応などを見聞きするにつれて、そんなことを考えるようになった。
 たしかに「呪術を信じている」と言う人もいる。しかし、反対に「迷信のようなものだろう」と否定的な反応を見せる人もいる。とするならば、ヴァヌアツの人びとも十人十色、さまざまな見方をもっている。だから「呪術が信じられている」と簡単には言えない、そうツッコミを入れることもできるかもしれない。
 ただ、人びとのなかには「信じている」、「信じていない」などとわかりやすく答える人だけでなく、「よくわからない」と言う人や半信半疑であるような人もいる。秘密の術である呪術が使われているところを見ることなど、ほとんどできないことを思えば当然かもしれない。だからだろうか、病気になり、診てもらった民間の治療者から実際に誰かに呪術をかけられていると言われて、驚いたり戸惑ったりする人もめずらしくない。
 「呪術が信じられている」と言ってしまうと、こうした「信じている」とも「信じていない」とも簡単には言えない微妙な反応は、忘れられてしまいそうだ。むしろ、そう言って済ませるだけでなく、微妙な反応を経て、呪術が現実味を帯びたものとして受けとめられたり、受けとめられなかったりする様子を詳しく追ってゆくことも、必要なのではないだろうか。それが、「ヴァヌアツの呪術とはこういうものだ」というわかりやすい答えにつながるかどうかは、ビミョウなところかもしれないが。

みんぱくウィークエンド・サロン 研究者と話そう


次号予告・編集後記
 四月は別れと出会いの季節、本誌においても、永年にわたって編集長、編集委員を務めてきた池谷和信、樫永真佐夫に代わり、中牧弘允、佐々木史郎、三尾稔が加わって、新しい体制で臨むことになった。編集長はわたし、久保が努めることになったが、わたしの不手際で今号の発行が遅れることになったことを、深くお詫びしたい。また、誌面構成も一部変更があり、新しいコーナー「歳事世相篇」が登場した。これは、柳田国男の『明治大正史(世相篇)』を念頭に、世界に広く歳事を求め紹介するものであり、ご期待いただきたい。さらに、巻頭では、これまでの特集記事に加えて、民族学・文化人類学にとどまらない広い分野の方々からお話を伺う「みんぱくインタビュー」もおりにふれて掲載していく予定である。今号と次号では、その一環として、昨年度いっぱいまで行われた「開館30周年記念事業」を踏まえたインタビューを掲載している。これは、開館30年という節目を越えて、これから民博がどこに向かおうとしているのかを、読者のみなさんにお伝えしたい、という思いで組んだものである。読者のみなさんには、今後とも、民博の諸活動へのご支援をお願いする次第である。 (久保正敏)



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