研究スタッフ便り 蘭語学ことはじめ
11月(1) バカがなる病気
「それってねえ、バカがなる病気っていうのよ。」サポーターでぐるぐるまきになった私の両手をみて、同僚の一人がいった。おおっ、さすが歯に衣着せないことで有名なオランダ人。でも顔は同情にあふれている。「私の弟もずいぶん困ってたわよ。」
それは、オーストリア・グラーツでの研究会出席中にはじまった。コーヒー・ブレイクの時間に左手でコップを持つと手首が痛い。おやっ?と思ううちに、痛みがひじから肩へと広がり、ライデンに戻るときにはとうとう身動きができなくなって、近所のかかりつけ医にかけこんだ。左手首、肘、肩を順にそっと、まげたりのばしたりしたあと、お医者さんはにっこり笑っていった。よかったわね、故障があるのは手首だけよ。よい塗り薬があるわ。オランダの保険では自費扱いなのに、あなたの国際保険だと全額カバーされるわよ、ラッキーね。手を使わないようにして、薬を一日二回塗りなさい。すぐ治るはずよ、お大事にね。そうか、それはラッキー。私はもう治ったような気分になって、意気揚々と保険のおかげで「ただ」だという薬を買いに出かけた。ところが。
一週間たっても二週間たってもなおらない。それどころか、痛みが両手に広がって、なにもできなくなってしまった。「あのー、なおらないんですけどー」、といってもどってきた私をみて、お医者さんの先生は不思議そうな顔。ただの腱鞘炎なのに?私の方はといえばその「ただの腱鞘炎」がいかにこわいか、ということをその後身をもって体験することになるのだが、もちろん、そのときにはそんなことにはまだ気が付かない。
「腱鞘炎」というと一般には、手に一時的に無理な力が加わったときにある特定の箇所に起こるものがよく知られている。したがって、何か直接の原因があると思われがちだ。話を聞いた友人たちからは、国籍を問わず、「コンピューターの使い過ぎよ。仕事の量を減らしなさい!」「ちょうどいいから観光でもしたら?」などのアドバイス。帰国も近くなったこの時期に、なんとよいアイデアであることよ。ところが、そんなに簡単には問屋がおろしてはくれなかった。炎症を起こした箇所をかばうため他の筋肉が次々と二次的に炎症を起こして痛みがひどくて動けなくなってしまうので、出かけることがまったくできないことが判明するのである。したがって、タイピングをしなければ治る、という一般の思い込みとは逆に、私の場合には、自宅で静かに休み休みコンピューターに向かっているほうが、まだ故障の度合いが低くてすむ。それを聞いたお医者さんは、椅子から転げ落ちそうになっていた。
コンピューターの利用者、少し前までならタイピストによく見られた腱鞘炎を含む手や首、肩の痛みなどは、ヨーロッパ英語圏では「RSI」と呼ばれる。Repetitive Strain Injury の略で、直訳すれば「反復運動損傷」。要するに、同じ動作の繰り返しにより筋肉や神経、腱などに支障をきたすさまざまな疾患の総称で、ベルトコンベヤーのような流れ作業の作業員や、ギター奏者などに起こるものもよく知られている。これを予防するため、1日のコンピューター使用に関する時間数の制限だとか、何時間ごとに何分間の休憩をとること、などの法律がある国もあり、オランダはその一つだ。そのような国では、RSIは起こってしまうと当然、労災だということになるので、雇用者は予防に熱心になり、被雇用者に対する予防のための教育にも熱心だ。したがって、RSIは、そういった知識がなく、もしくは知識があっても十分に予防の対策をとらなかった「バカ」がなる病気だということになるのであった。
では予防のために具体的に何をすればよいのか?話を聞いたIIASのローカルスタッフが、誰でもまず質問してくるのが、あるコンピューターのプログラムを使っているかどうかということ。…私はそんなプログラムがあることさえ知らなかった。(やっぱり私はバカ?)これは、コンピューターにインストールすると何分かおきに画面に休憩の指示を出してくれるもの。休憩時間には2種類あって、4、5分に1回の15秒程度の短い休憩と、45分から50分に1回の長い休憩。長い休憩の間には、簡単なストレッチなどの指示も出てくる。休憩時間ごとにコンピューターを完全にロックしてしまう設定もできる、というより、ロックしてしまうのがデフォルトなので、急ぎの仕事があっても定期的に休まざるを得ない、という仕組みになっている。
このプログラムの理論的な背景は次の通り。コンピューターのキーボードを使っている間、手は上がりっぱなしになっている。集中していれば集中しているほど、自分では気がつかないままこの姿勢を続けてしまい手の筋肉をどんどん疲れさせてしまうことになる。一方で、筋肉疲労は、疲労の度合いが低いほど短時間で回復する。だから、作業中にたとえば、4、50分に一度、10秒間だけ手を両脇にダランとたらして十分な血液を送ってやるだけで健康な筋肉であれば疲れを完全に回復させることができるそうだ。コンピューターでの作業中、これを意識して繰り返すだけでRSIは予防できるという。逆にこれをしないで何十分、ひいては何時間も作業を続ける状態が続くと、普通の状態に回復するまでにかかる時間も長くなり、ついには回復できなくなってしまうのだそうだ。
オーストラリアのシドニー大学からきている同僚は、職員の健康管理の一環として部署にあるすべてのコンピューターにこのプログラムを導入したと言っていた。プログラム導入にお金がかかっても、長期的に見れば、被雇用者のために支払う健康保険料が節約になる、というわけ。一方、アメリカ人の研究員は、キーボードとマウスを手に負担がかからない形のものに変えるように提案してくれた。日本ではあまり見ないが、アメリカのコンピューターストアなどではよく見かける。Ergonomic Design 「人間工学に基づいたデザイン」ということで、一般のキーボードやマウスより手や腕に負担がかからない形になっているという。これも即購入。机と椅子の高さのバランスもチェックしたが、これはそのままでOK。ホッとして嬉しいような、修正できることがなくて悲しいような。
残念ながら、これらの試みは悪くしてしまった腱鞘炎の解決にはならなかったが、これまでに慢性化していたひどい肩こりがなくなり、身体全体が楽になったのには驚いた。コンピューターが提案してくれるストレッチも、毎回4、5種類、いつも異なるストレッチがでてくるから、退屈しない。これまでにも、自分でも、疲れたなぁと思うたびにストレッチはしていたけれど、今になって考えてみればその種類は限られていたし、なにより「疲れた時」になってからしているのでは遅すぎたのだ、ということにはじめて気が付いた。大学の試験にはこんなことは出なかった…いや、生物の時間に習ったのかもしれないけれど、自分の生活習慣に結びつけて理解してはいなかった。(「応用力の不足」?)
さらに手を使わずともコンピューターでの作業ができるようにということで、これまでに興味はあったがそのままになっていた音声による入力ソフトにお世話になることになった。この原稿も、音声入力のソフトを使って書いている。音声認識の技術は思ったよりすすんでいて実用に十分役に立つことをはじめて知り、また、私の専門の言語学との絡みもあって面白い発見がいろいろあった。音声認識のソフトについては周りの人からもいろいろな質問を受けるので、稿を改めてまた書いてみたいと思っている。
というわけで、最後はちょっと残念なライデン滞在になってしまったが、コンピューター環境や、労働環境に対するそれぞれの社会の考え方、それから上肢障害に対するバリアフリーなど、いろいろなことを考えるきっかけになったことはよかった。で、最後に、その産物である新説をひとつ。私が経験したような原因がはっきりせず、しかも両手に広がるようなタイプの腱鞘炎は女性に多いらしい。症状が一番ひどいときには手に力が入らず、胸の前に両手がだらんとたれたおばけの手になってしまっていた。したがって…両手を前に、うらめしやー、といってでてくる幽霊の起源は、昔まだ顕微鏡手術などがなかった時代に腱鞘炎になって家事一般をこなすことができなくなってしまった女性が、暇をだされて行く所もなく徘徊していた姿だったのではないか、と、今では半分本気で信じている。
参考
今回のコラムは、このソフトのことをお伝えしたくて書きました。肩こりなどがあるかたは、だまされたとおもってぜひぜひ、試してみてください。日本でも健康重視で労働環境を整えられるようになるといいなと思います。
WorkPace
http://www.workpace.com/
1カ月間の無料トライアル後、購入。各国の法律に合わせた設定や、RSIに関する過去の経験や現在の症状に合わせた休憩時間の設定をしたり、管理用にキーボードやマウス使用のログをとる機能が付いています。
WorkRave
http://www.softpedia.com/get/Others/Home-Education/Workrave.shtml
http://www.softpedia.com/progDownload/Workrave-Download-6925.html
フリーウェア。ダウンロードのサイトは英文ですが、日本語システム上では日本語で標示されます。
インストールすると、こんな画面がモニターに現れます。小休止まであと2分43秒、休憩まで44分43秒、パソコン利用の制限時間まで3時間59分を示しています。(時間の設定は変更可。)
追記
ライデンでも、日本でも、いろいろな方にご心配いただき、また助けていただきました。諸方にご迷惑をおかけしていることを心苦しく思いつつ、皆様のご理解と励ましに心より感謝しつつ毎日を過ごしております。今回のことをきっかけに、本文で少し触れたコンピューターの支援ソフトや音声入力ソフト、オランダと日本、そしてアメリカの病院制度の違いなど、いろいろ新しい経験をすることができました。一般の方にも興味を持っていただけそうなことを、別のシリーズでまた改めてご報告させていただきたいと思っています。乞う、ご期待!
それは、オーストリア・グラーツでの研究会出席中にはじまった。コーヒー・ブレイクの時間に左手でコップを持つと手首が痛い。おやっ?と思ううちに、痛みがひじから肩へと広がり、ライデンに戻るときにはとうとう身動きができなくなって、近所のかかりつけ医にかけこんだ。左手首、肘、肩を順にそっと、まげたりのばしたりしたあと、お医者さんはにっこり笑っていった。よかったわね、故障があるのは手首だけよ。よい塗り薬があるわ。オランダの保険では自費扱いなのに、あなたの国際保険だと全額カバーされるわよ、ラッキーね。手を使わないようにして、薬を一日二回塗りなさい。すぐ治るはずよ、お大事にね。そうか、それはラッキー。私はもう治ったような気分になって、意気揚々と保険のおかげで「ただ」だという薬を買いに出かけた。ところが。
一週間たっても二週間たってもなおらない。それどころか、痛みが両手に広がって、なにもできなくなってしまった。「あのー、なおらないんですけどー」、といってもどってきた私をみて、お医者さんの先生は不思議そうな顔。ただの腱鞘炎なのに?私の方はといえばその「ただの腱鞘炎」がいかにこわいか、ということをその後身をもって体験することになるのだが、もちろん、そのときにはそんなことにはまだ気が付かない。
「腱鞘炎」というと一般には、手に一時的に無理な力が加わったときにある特定の箇所に起こるものがよく知られている。したがって、何か直接の原因があると思われがちだ。話を聞いた友人たちからは、国籍を問わず、「コンピューターの使い過ぎよ。仕事の量を減らしなさい!」「ちょうどいいから観光でもしたら?」などのアドバイス。帰国も近くなったこの時期に、なんとよいアイデアであることよ。ところが、そんなに簡単には問屋がおろしてはくれなかった。炎症を起こした箇所をかばうため他の筋肉が次々と二次的に炎症を起こして痛みがひどくて動けなくなってしまうので、出かけることがまったくできないことが判明するのである。したがって、タイピングをしなければ治る、という一般の思い込みとは逆に、私の場合には、自宅で静かに休み休みコンピューターに向かっているほうが、まだ故障の度合いが低くてすむ。それを聞いたお医者さんは、椅子から転げ落ちそうになっていた。
コンピューターの利用者、少し前までならタイピストによく見られた腱鞘炎を含む手や首、肩の痛みなどは、ヨーロッパ英語圏では「RSI」と呼ばれる。Repetitive Strain Injury の略で、直訳すれば「反復運動損傷」。要するに、同じ動作の繰り返しにより筋肉や神経、腱などに支障をきたすさまざまな疾患の総称で、ベルトコンベヤーのような流れ作業の作業員や、ギター奏者などに起こるものもよく知られている。これを予防するため、1日のコンピューター使用に関する時間数の制限だとか、何時間ごとに何分間の休憩をとること、などの法律がある国もあり、オランダはその一つだ。そのような国では、RSIは起こってしまうと当然、労災だということになるので、雇用者は予防に熱心になり、被雇用者に対する予防のための教育にも熱心だ。したがって、RSIは、そういった知識がなく、もしくは知識があっても十分に予防の対策をとらなかった「バカ」がなる病気だということになるのであった。
では予防のために具体的に何をすればよいのか?話を聞いたIIASのローカルスタッフが、誰でもまず質問してくるのが、あるコンピューターのプログラムを使っているかどうかということ。…私はそんなプログラムがあることさえ知らなかった。(やっぱり私はバカ?)これは、コンピューターにインストールすると何分かおきに画面に休憩の指示を出してくれるもの。休憩時間には2種類あって、4、5分に1回の15秒程度の短い休憩と、45分から50分に1回の長い休憩。長い休憩の間には、簡単なストレッチなどの指示も出てくる。休憩時間ごとにコンピューターを完全にロックしてしまう設定もできる、というより、ロックしてしまうのがデフォルトなので、急ぎの仕事があっても定期的に休まざるを得ない、という仕組みになっている。
このプログラムの理論的な背景は次の通り。コンピューターのキーボードを使っている間、手は上がりっぱなしになっている。集中していれば集中しているほど、自分では気がつかないままこの姿勢を続けてしまい手の筋肉をどんどん疲れさせてしまうことになる。一方で、筋肉疲労は、疲労の度合いが低いほど短時間で回復する。だから、作業中にたとえば、4、50分に一度、10秒間だけ手を両脇にダランとたらして十分な血液を送ってやるだけで健康な筋肉であれば疲れを完全に回復させることができるそうだ。コンピューターでの作業中、これを意識して繰り返すだけでRSIは予防できるという。逆にこれをしないで何十分、ひいては何時間も作業を続ける状態が続くと、普通の状態に回復するまでにかかる時間も長くなり、ついには回復できなくなってしまうのだそうだ。
オーストラリアのシドニー大学からきている同僚は、職員の健康管理の一環として部署にあるすべてのコンピューターにこのプログラムを導入したと言っていた。プログラム導入にお金がかかっても、長期的に見れば、被雇用者のために支払う健康保険料が節約になる、というわけ。一方、アメリカ人の研究員は、キーボードとマウスを手に負担がかからない形のものに変えるように提案してくれた。日本ではあまり見ないが、アメリカのコンピューターストアなどではよく見かける。Ergonomic Design 「人間工学に基づいたデザイン」ということで、一般のキーボードやマウスより手や腕に負担がかからない形になっているという。これも即購入。机と椅子の高さのバランスもチェックしたが、これはそのままでOK。ホッとして嬉しいような、修正できることがなくて悲しいような。
残念ながら、これらの試みは悪くしてしまった腱鞘炎の解決にはならなかったが、これまでに慢性化していたひどい肩こりがなくなり、身体全体が楽になったのには驚いた。コンピューターが提案してくれるストレッチも、毎回4、5種類、いつも異なるストレッチがでてくるから、退屈しない。これまでにも、自分でも、疲れたなぁと思うたびにストレッチはしていたけれど、今になって考えてみればその種類は限られていたし、なにより「疲れた時」になってからしているのでは遅すぎたのだ、ということにはじめて気が付いた。大学の試験にはこんなことは出なかった…いや、生物の時間に習ったのかもしれないけれど、自分の生活習慣に結びつけて理解してはいなかった。(「応用力の不足」?)
さらに手を使わずともコンピューターでの作業ができるようにということで、これまでに興味はあったがそのままになっていた音声による入力ソフトにお世話になることになった。この原稿も、音声入力のソフトを使って書いている。音声認識の技術は思ったよりすすんでいて実用に十分役に立つことをはじめて知り、また、私の専門の言語学との絡みもあって面白い発見がいろいろあった。音声認識のソフトについては周りの人からもいろいろな質問を受けるので、稿を改めてまた書いてみたいと思っている。
というわけで、最後はちょっと残念なライデン滞在になってしまったが、コンピューター環境や、労働環境に対するそれぞれの社会の考え方、それから上肢障害に対するバリアフリーなど、いろいろなことを考えるきっかけになったことはよかった。で、最後に、その産物である新説をひとつ。私が経験したような原因がはっきりせず、しかも両手に広がるようなタイプの腱鞘炎は女性に多いらしい。症状が一番ひどいときには手に力が入らず、胸の前に両手がだらんとたれたおばけの手になってしまっていた。したがって…両手を前に、うらめしやー、といってでてくる幽霊の起源は、昔まだ顕微鏡手術などがなかった時代に腱鞘炎になって家事一般をこなすことができなくなってしまった女性が、暇をだされて行く所もなく徘徊していた姿だったのではないか、と、今では半分本気で信じている。
参考
今回のコラムは、このソフトのことをお伝えしたくて書きました。肩こりなどがあるかたは、だまされたとおもってぜひぜひ、試してみてください。日本でも健康重視で労働環境を整えられるようになるといいなと思います。
WorkPace
http://www.workpace.com/
1カ月間の無料トライアル後、購入。各国の法律に合わせた設定や、RSIに関する過去の経験や現在の症状に合わせた休憩時間の設定をしたり、管理用にキーボードやマウス使用のログをとる機能が付いています。
WorkRave
http://www.softpedia.com/get/Others/Home-Education/Workrave.shtml
http://www.softpedia.com/progDownload/Workrave-Download-6925.html
フリーウェア。ダウンロードのサイトは英文ですが、日本語システム上では日本語で標示されます。
インストールすると、こんな画面がモニターに現れます。小休止まであと2分43秒、休憩まで44分43秒、パソコン利用の制限時間まで3時間59分を示しています。(時間の設定は変更可。)
ライデンでも、日本でも、いろいろな方にご心配いただき、また助けていただきました。諸方にご迷惑をおかけしていることを心苦しく思いつつ、皆様のご理解と励ましに心より感謝しつつ毎日を過ごしております。今回のことをきっかけに、本文で少し触れたコンピューターの支援ソフトや音声入力ソフト、オランダと日本、そしてアメリカの病院制度の違いなど、いろいろ新しい経験をすることができました。一般の方にも興味を持っていただけそうなことを、別のシリーズでまた改めてご報告させていただきたいと思っています。乞う、ご期待!
(写真)ノートパソコンに手や腕に負担をかけないデザインのキーボードとマウス(ワイヤレス)をつないだ所。キーボードの方がコンピューターより大きくて、ちょっと笑えるかも!? |