国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

三尾 稔 『オックスフォード雑記帳』

研究スタッフ便り『オックスフォード雑記帳』
 
オックスフォードにガネーシャ神像が飾られているわけ
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ラドクリフ・カメラ。18世紀の建物だが、今も中は閲覧室として使われている。奥にボードレアン図書館の本館の一部が見える。
私はインドの宗教と社会を専門に研究している。その私がイギリスに在外研修に来たのは、イギリスに蓄積されたインド関係の研究書や文書を閲覧するためである。

言うまでもなく、イギリスは長い間「インド」(現在のパキスタン、バングラデシュ、そしてインドを含む)を支配した。オックスフォード大学もこのインド支配と深いかかわりを持っていた。 例えば、臨時在職者をのぞけば歴代20人を数えるインド総督(イギリス領インド帝国の最高支配責任者)のうち実に9人までがオックスフォード卒だった。ケンブリッジ卒業生はその3分の1の3人である。 またオックスフォードはインド高級文官養成の中心でもあった。イギリス出身のインド高級文官(ICS = Indian Civil Service)は登用試験合格後、イギリスの大学で2年間の研修を経て任地に赴くという制度があった。 歴史ライターのDavid Gilmourの書いた"The Ruling Caste"という本によれば、ヴィクトリア朝期のイギリス出身ICSの半数以上がオックスフォードでその研修期間を過ごしている。 植民地インドからも多数の学生がオックスフォードに留学している。 著名人の中には、後のインド初の女性首相インディラ=ガンディー(1938年、サマーヴィル・カレッジ卒業)がいるし、植民地期の留学ではないが、パキスタン初の女性首相ベナジル=ブットもオックスフォードで学んでいる(1973年、レディ・マーガレット・ホール卒業)。 そしてまた、インド研究の面でもオックスフォードは19世紀以来イギリスを代表する機関となっている。

現在、オックスフォードの南アジア関連の書籍や文書は"Indian Institute Library"にまとめられている。オックスフォードに来てからの私はここに通っては文献を漁るのが日課になった。 本は借り出せないためここに通って読むしかない。

この図書室は、オックスフォードの学寮群のおへそのような位置にあるボードレアン図書館群の一角をしめている。 ボードレアンは蔵書750万冊以上、所蔵する地図類124万点余りという巨大な図書館で、本館は映画『ハリー・ポッターと賢者の石』でホグワーツ魔法学校の図書室のシーンの撮影にも使われた。 大英図書館と同様に少なくともイギリスで出版される本は全てこの図書館で所蔵する仕組みになっている。 蔵書はここだけには収まりきらず、ラドクリフ・カメラ(「カメラ」は円形の小部屋という意味)など近くのいくつかの建物と一緒に大学の中央図書館群を構成し、各建物の地下に何階にもわたる蔵書スペースが確保されている。 私の通っている"Indian Institute Library"はボードレアン新館という建物の中にある。

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"ボードレアン新館。屋上に建て増しされたように見える部分がIndian Institute Libraryになっている。
Libraryには新館に入って階段を2つ上り、ガラスドアを通ってしばらく歩き、その先の木の扉を開けてさらに階段を2つ上ってようやくたどりつく。中は本の密林のようだ。 英語やヨーロッパ諸語の文献はもちろん、サンスクリット語やヒンディー語、ペルシャ語、アラビア語などの研究書(日本語文献はごくわずかだがこの間見つけた)、宗教書の原典や注釈書、辞書や辞典、各種の統計、学術雑誌のバックナンバーなどがところ狭しと並んでいる。 インドで出版されたのにインドではなかなか入手できない本がたくさん読めるのには感激した。ボードレアンのほかの図書館とは違い全て開架式なので自分の足で文献が探せるのも楽しく、思いがけない発見もある。 分類の仕方が独特な上、ある分類の本が棚に収まりきらなくなると余った書籍をぽんと離れた棚に平然と並べてしまったりしてあるので、時々本探しは迷宮めぐりのようになる。それも本を読むのに疲れた頭にはちょうどいい気分転換だ。 閲覧用の席は36席しかないので、午後になると満席状態になることもある。パソコンを持ち込んで論文の執筆に励む学生の姿も多数見かける。貴重書も多いため、本の扱いには特別な注意が払われ、水や食べ物の持ち込みは厳禁になっている。 先日、どういうわけかペットボトルを持ち込んだ学生がいて、水を一口飲んだら、司書の男性がすぐにつかつかと歩み寄って静かにしかし厳かに警告していた。 図書室は満席でも静まり返っているので、ささやくような叱責でも周囲の視線を十分に集め、相当応えるらしい。この学生は恐縮のあまり席を立ってしまった。 こうして貴重書も並べつつ開架式サービスを続けるという芸当が維持されているのだろう。

この図書室、建物の位置関係から言っても、いかにも建て増ししたように思える。またInstitute(研究所)を名乗る他の機関は、ほとんど全て自前の建物を持ち、独自の図書室の他に教員の研究室やセミナー室などを備えている。 オックスフォードはカレッジ(学寮)の連合体で、各カレッジには様々な専門分野の教員と学生が混じりあって暮らしている。 しかしそれとは別立てで、それぞれの専門分野は各々の研究所を備え、そこを研究と教育の中心にしているのである。 社会人類学などは5つも建物を持っている。それなのに、Indian Instituteは図書室だけがあり、他の研究施設がないのは奇妙と言えば奇妙である。

実はIndian Instituteは自前の建物をかつては持っていたのだ。新館のはす向かいにある現在は近代史研究所が使っている建物がそれだったという。 Indian Instituteは19世紀後半を代表するサンスクリット学者でオックスフォードの教授であったMonier Monier-Williams(誤植ではない。Monierが2回続くという名前である)の尽力により、1883年に創建された。 先に書いたインド高級文官の卵たちの研修もこの建物を中心に行われていたらしい。今も近代史研究所の玄関を入った所には、サンスクリット語と英語で書かれた当時の定礎プレートが残されている。 英語版の方には創建の日付がインドの暦(ヴィクラムサンヴァット紀元1939年ヴァイシャーカ月黒分10日水曜日)でも記され、ここが同じアーリア人種であるインド人とイギリス人の東洋学研究のための研究所であることや、インドとイギリスの「自然な」友好関係がいや増すようにという願いが書かれている(「」は筆者)。インド人とイギリス人の同祖説が本気で信じられていた当時の時代背景や、イギリスによるインド支配という現実が「自然な友好関係」という言葉で隠蔽されていることなどがあからさまで、この碑文の前に立つと複雑な感懐にとらわれざるを得ない。今日、インド北部の言語と英語とは遠い親縁関係はあっても、それは「インド人」と「イギリス人」が人種的ないし民族的に同祖であったという根拠にはならないというのが一般的な見解である。そもそもインド南部の人々などを無視して「インド人」をひとくくりにするのは無理がある。その一方で、同祖説があったればこそサンスクリット学などがイギリスやドイツで熱心に追究され大きな業績があがったという事情もあるのだが。(当時のゲルマン系のインド学者には、それは自分たちのルーツ探しという意味があったのだ)

この建物の外壁の飾りの1つとしてヒンドゥーの神であるガネーシャ神の頭部が用いられている。インドではガネーシャ神は災厄をはらう神とされ、よく戸口などに絵や像が置かれ拝礼の対象になっている。 このガネーシャも守護神としての意味合いもこめて飾られたものだろう。気がついて見てみるとガネーシャは一種独特の存在感をもって、キリスト教的なモチーフが圧倒的なオックスフォードの街を見下ろしている。

今は近代史研究所として使われている建物。ガネーシャ像の飾られている場所がわかりますか? 近代史研究所玄関に残る、Indian Instituteの定礎プレート(サンスクリット語)。

知り合いの教授によると、Indian Instituteはインド独立の後、当時の教授たちが「もうイギリスでは誰もインド研究など必要とはしなくなるだろう」という理由で建物を明け渡してしまったのだと言う。 ガネーシャの守護も異教徒には全く役に立たなかったというわけであろうか。インドの独立はイギリスの人々にとって精神的にも相当なダメージを与えたとされるが、この明け渡し騒動の挿話からも当時のイギリスのエリートの狼狽ぶりがうかがえる。 研究所はそもそもインドの藩王たちの寄付金を集めて建てられたというから、インド独立によってその金銭的な後ろ盾を失ったということも明け渡しの大きな理由かも知れない。 現在も研究所やカレッジは様々な寄付金を重要な財源の1つにして運営されており、パトロン探しが場合によってはとても大変なのだと聞く。 いずれにせよ、図書室はその後の世代の教授たちの懸命の努力によって蔵書の散逸を免れ、ボードレアンの新館に言わば間借りする形で存続することになったという顛末らしい。

ボードレアン図書館や近代史研究所の前を通り過ぎる人々は、今ではほとんど誰もガネーシャ神像に気づかない。風雨にさらされ牙も丸みを帯びてきた神像は今何を思って21世紀のオックスフォード界隈を眺めているのだろう。
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オックスフォードのガネーシャ像。グレコ・ローマン風の装飾がまわりに施され、異教色が薄められている。
 

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