学部で文化人類学を志した頃(ころ)、ブラジルの先住民社会についても学んだ。当時、邦訳されたばかりの「悲しき熱帯」(レヴィ=ストロース著)が異彩を放っていた。
大学院では北海道の開拓と宗教のテーマに取り組んだ。しかし、南米調査の夢は捨てきれず、スペイン語の勉強をはじめてみたりした。モノにはならなかったが。
民博に勤務しはじめた1977年からは、ハワイの日系宗教を追いかけた。そしてチャンスが到来した。80年、サンパウロ郊外の日系人社会の研究にさそわれたのである。ところが、渡航の直前、風邪が原因で突然、両手両足が麻痺(まひ)してしまった。ギランバレー症候群という急性疾患だった。
リハビリで筋力の回復をはかり、ようやく3年後にブラジルの土を踏んだ。そこでポルトガル語をABCからはじめ、日系宗教を皮切りに民衆文化、さらにはアマゾンのサイケデリックス文化へと研究テーマを広げていった。
先住民社会の調査が実現したのは93年だった。だが、過酷な環境と寄る年波、くわえて調査許可の取得に要する膨大なエネルギーなど、3年の研究期間の後、足踏み状態が続いている。回り道をしすぎたのかもしれない。
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