何気ない日常のひとコマで、最初のボタンの掛け違いからさらに誤解を重ねていたことに後から気づくことがある。8月末、私は中国・昆明空港で小さな回り道の末、当世中国社会の一端に触れた。
チェックインカウンターで並んでいた時のこと。すぐ前に体格のよい青年と小柄な中年の二人連れがいた。ともに替え上着の後ろ姿で、私はなぜか出張に行く上司と部下だと思った。
上司が部下に何か言ってその場を離れた後、列が前に動き出した。部下は自分の小振りの手荷物を動かしただけで、上司のスーツケースには手を触れようとしない。一緒に出張する上司の持ち物でも、他人の物は他人の物ということなのだろうかと、私は青年の横顔を眺めた。
戻ってきた上司によってスーツケースがようやく前に動くと、初めて二人の会話に耳を傾けた。すると突然、違う構図が眼前に広がった。二人は親子であった。この時期、中国では新学年開始を控え、新入生とその親とが旅立ちと別れを体験する。都会育ちと思われるその青年は、一人息子なのだろう。チェックインの番になると、見送りに来た父親が息子の大型スーツケースをやっとこ台の上にのせ、息子はそれを傍観していた。
シリーズの他のコラムを読む
-
(1)正直者の父 樫永真佐夫
-
(2)新発見のきっかけ 印東道子
-
(3)自然のリズム 林勲男
-
(4)今夜は泊まれよ 太田心平
-
(5)乾期に慈雨 久保正敏
-
(6)この夏の空港にて 横山廣子
-
(7)アマゾンへのあこがれ 中牧弘允