フィジーの都市タヴアで大勢の人に囲まれ身動きがとれなくなっていた私の耳に、不意に英語が飛び込んできた。「ナンラウに行く手段はないよ。野菜トラックにでも乗るなら別だけどね」。一瞬迷った後、私はフィジー語で答えを返す。「その野菜トラックを探しているの。探してきてくれない?」
インド系フィジー人は普通、ヒンディー語と英語しか理解しないのに、にやにやしていたその青年はそれを耳にしたとたん真顔になり、次の瞬間にはもう駆け出していた。そろそろ村の人が家路に向かうころ、逃してしまうと次に市がたつ日まで足止めだ……。「こっちだよ」。そして数分もしないうちに戻ってくると、大きな笑顔とともに私の荷物をかつぎ上げた。
言葉は文化を反映する。英語の世界ではバスとタクシーが走るけれど、フィジー語なら野菜トラック。このガイジンは野菜と一緒のデコボコ道も平気だと、私のフィジー語を聞いて瞬時に理解したこの青年の感性と判断力。三つの言語を操り、インド系とフィジー系の間の「目に見える」溝を軽々と飛び越えて暮らしている、こんな青年の存在こそが、ふたつの民族の共生を目指して苦しむこの国を将来へとつなげるのかもしれない。
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