国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』 ─ 講演会、はたまた公園会

広瀬浩二郎『テリヤキ通信』

講演会、はたまた公園会
 久々の「テリヤキ」である。といっても、相変わらず本物のテリヤキはもりもり食べている。連載開始時から「不定期」とは宣言していたものの、3ヶ月のブランクはちょっと長すぎる。幸か不幸か「テリヤキの続編を早く読みたい」「最近どうしてるの?」といったファン(?)の声はちっとも聞こえてこないが、我が在外研究も残すところ4ヶ月足らず。これからはヤンキースの松井選手のホームラン数と争いつつ、「テリヤキ」も量産モードに入りたいものだ(「テリヤキ」はどうでもいいけど、松井にはもっと頑張ってほしいですよね…)。
 さて、この3ヶ月、僕は何をしていたか。野球に例えるなら、開幕戦を前にした「キャンプ」というところか。そして、僕にとっての「ペナントレース」(そんな大げさなものではないが)とは、4月の初めから連続して行なった4回の講演会だった。まあ、ほぼ毎日試合をする野球選手に比べたら、たかが4回の講演など楽なものではある。ただ、英語による本格的なレクチャーは僕にとっては初めての経験であり、今回のアメリカ滞在の一つのクライマックスともなるイベントだった。
 我が「キャンプ」は、前回報告したカリフォルニア旅行から帰宅後、プリンストンでの春学期も始まった2月中ごろからぼちぼちスタートした。まずは4月3日に予定されているミシガン大学での講演に向けて原稿を準備するのである。
 日本にいたころ、こんな僕でもちょいちょい講演を頼まれることがあった。もちろん、アカデミックな場でのスピーチ、専門の研究分野に関する依頼はまだまだ僅かである。僕が主に行なっているのは、「バリア・フリー」や「共生」、「人権問題」についての講演。などと言えば少し堅苦しく聞こえるが、内容としては「我が半生」(もう半分も生きちゃったかなあ…?)を素材に体験談を話すのみである。近頃では各種のボランティア団体、自治体主催の講座、小中高など学校での啓発授業に招かれることが多い。
 基本的に日本で講演する時は、原稿など作らない。せいぜいポイントを箇条書きしたメモを用意するくらいだ。「我が講演は、筋書きのないドラマなり」というのをとりあえずのモットーとして、リラックスしつつ気ままに喋ることにしている。そんないいかげんな「ドラマ」に付き合わされる聴衆は迷惑かもしれない。
 講演慣れしているというほどずうずうしくはないが、何度か同じようなテーマでの話を繰り返していると、自分自身の、そして参加者の「気」をよく感じる。僕個人の元気(体調)も講演の出来に関係してくるし、何よりも聴衆の雰囲気、反応は気になる。たとえば、ボランティアのおばちゃま方を対象とした講演会などで、こちらが予想していた以上に笑ってくれたりすると、僕もどんどん「いい気」になって舌好調だ。
 逆に毎週、非常勤講師として通っていた某私立大学の授業などでは、無関心な者、私語する者が多く、なんとなくこちらも気が散ってしまう。そんな時は、自分の講義がつまらないことを棚に上げて「最近の若い者は…」とぼやきたくもなる。まあ、あの長嶋茂雄さんも「失敗は成功のマザー」とおっしゃっているので、今後ともあらゆる聴衆を「いい気」にさせる講演をめざしたいものである。
 そもそも僕の乏しい経験からいうと、出席者の印象に残る講演、講義とは2種類しかない。第一は学問的に奥深いとか、人生の指針を与えてくれるような「すごい」内容の講演。仮に「高遠型」とでも名付けよう。第二は内容は二の次として、とにかく笑える「おもしろい」講演。「公園型」とも呼びうるものだ。若輩者の僕がどちらを狙うかは自ずと明らかだろう。いろいろな「仕掛け」を用意してお客様に楽しんでもらう、公園で遊ぶように常に「笑い」のあるレクチャーが目下の僕の理想なのだ。もちろん、我が後半生(さて、それはいつから始まるのかな?)では、高遠型にも挑戦していきたいとは思っているが…。

1.ミシガンでの初ヒット

 さてさて、いつものごとく前置きが長くなってしまったが、2月からの僕の「キャンプ」の話にもどろう。英語での講演となると、筋書きのないドラマ、公園型などと悠長なことはいっておれない。とにかく原稿を作って、それを棒読みする…、これしかない。ミシガンの場合は1時間トークをして、その後30分の質疑応答という形式だったので、かなり長文の原稿が必要だ。残念ながら、この「テリヤキ」を書くように「いい気」になってすらすらとはいかない。一語一語、一文一文を吟味しながらといえば聞こえはいいが、つまりは和英、英和辞典を駆使して牛歩のごとく原稿書きはスタートした。
 無論、気まぐれな僕のことだから、集中して毎日毎日執筆していたわけではない。ごろごろしながら、その合間にちょろちょろ書いていたという感じだろうか。ただ、なんとなく原稿のことは頭から離れず、合気道をしてても、ご飯を食べていても、ふと「そうか、書かねば…」と思い出し、一人憂鬱になったりしていた。
 原稿は1ヶ月ほどで書き上げ、アメリカ人の友人(大学院生)たちにチェックしてもらう。英語の読み書きは「今は昔」となった受験勉強のおかげ(?)で、ヒヤリング、スピーキングに比べたら、まだなんとかなる。それでも「文法的には正しいけど、英語の言い回しとしては…?」との注意をたくさん受け加筆していく。日本語で考え、それを英語に置き換えていくのが基本だが、英語ならではのレトリックもあるし、日本的「曖昧さ」は通じない。
 複数の人に原稿を読んでもらうと、違った意見が聞けてなかなか勉強になる。というのはいいのだが、そうものんびりしていられない。原稿が完成したら「棒読み」の特訓。我が英語の発音の悪さはいまさらどうしようもないが、せめて「らしく」聞こえる努力をしなくては、来てくださる人に失礼だろう。音読の練習には大学が斡旋してくれたチューター(ボランティア)に付き合ってもらう。
 自慢ではないが、僕の英語は典型的なジャパニーズ・イングリッシュ。よく「何を研究されてるのですか」と尋ねられ「ジャパニーズ・レリジョン」と答えるが、この「religion」がまず通じない。およそ「宗教」とは縁遠い人間に見えるということもあるのだろうが、「religion」と2度、3度繰り返しても理解されない時は、まさしく神頼みするしかない。
 また、先日サンフランシスコのホテルに滞在している時、旅行スケジュールも順調に終了した安堵感と長旅の疲れで「そうだ、たまにはマッサージでもしてもらおう」とフロントに問い合わせた。どうせ「massage」という単語は僕の発音では通じないだろうと思い「マ、マッサーージッ」と強調して尋ねてみた。すると、どうも怪しいマッサージと誤解されたらしく「そんなのはダウンタウンに行かないとないよ」と妙な笑い方をされてしまった。僕ってエッチっぽい顔してたのかなあ…(いや、そんなはずは…)。
 このように、英語が通じなかった例を挙げればいくらでもある。アメリカに来てからは、長嶋さん顔負けのオーバーアクションで「like this」とか言いながら、変てこな身振り手振りで自分の意思を伝えることも増えた。もっとも、僕の英語力、ゼスチャーでもそれなりに快適に暮らせるのだから、やはりアメリカは「いい国」なのだろう。

 そうこうして迎えた4月3日、僕にとっての「ペナントレース」開幕戦。ミシガン大学はデトロイトから車で30分ほどの町、アンアーバーにある。今回は大学側の「招待」ということで、航空券、宿泊まですっかり手配してもらえた。おまけに講演の前日と当日には、大学で「日本」について研究しておられる教授方とのディナーもアレンジされていた。いくら「ただ飯」好きの僕とはいえ、これだけ歓待されると「失敗は成功のマザー」と言い訳することもできない。いい意味での緊張感を持って、武者震いしつつ(実際、ミシガンは寒かったのだが…)、当日の演壇に立った。
 さて、肝腎の講演の中身は、いろいろ考えた末に、まず初回のミシガンでは手堅くいこうと、今までの自分の研究をまとめるようなつもりで原稿を書いた。演題は「日本宗教史再考-オウム事件と近代日本の盲人文化-」(「Reconsidering Japanese Religious History: the Aum Incident and Blind Culture in Modern Japan」)。どうですか、おもしろそうでしょ!?
 今回は(小難しくなりそうなので)詳しい内容については省略する。要約すれば、オウム真理教の麻原彰晃を、日本中・近世の琵琶法師、イタコ(盲人宗教者)の生き方との比較から分析したものである。万が一(!?)興味のある方は、この4月に岩波書店から刊行された『いくつもの日本 V5』に収められた拙論「近代日本の〈厄介な人〉、〈気になる人〉、〈変な人〉-麻原彰晃への旅、麻原彰晃からの旅-」を読んでください(と、さりげない宣伝でした)。
 ミシガン大学には「日本研究センター」(Center for Japanese Studies)という施設があり、全米でも日本学の盛んな大学として知られている。そのセンターがほぼ毎週、国内外からゲストを招いて講演会を企画・運営している。僕の講演会はテーマがオウム真理教だったためか、今年度最高の来場者数を記録した。「記録よりも記憶」とはいうものの、やはり「記録」も気になる。無名の研究者のトークに69人もの聴衆が集まったのだから、ミシガンでの「日本」への注目度はたいしたものだ(というより、愛すべき「変わり者」が多いだけかも…)。
 欧米の大学にあって日本学は、まだまだマイナーな存在である。そんな中でも「オウム真理教」「地下鉄サリン事件」といえば、だれもが少なからぬ関心を持っている。さまざまな意味で「日本」を象徴する事件で、世界的な影響力があったのは確かだ。麻原を材料にして講演をするというのは、僕にとって複雑というか、腹立たしいことなのだが、自分の研究成果の一端を多くのアメリカ人に聴いてもらえたのはうれしかった。
 最初はやや緊張気味に喋りだした僕だが、徐々に「いい気」になってくる。僕の場合は当然、点字の原稿を指で追いながら話すわけだが、そうすると顔は正面を向いていることになる。何人かの人に指摘されたのだが、これは表面的には「じつに堂々としている」ように感じられるらしい。たしかに、晴眼者が下を向いて原稿をぼそぼそ読むよりは、「顔」が見えるのはいいことなのだろう。何はともあれ、点字に感謝!まあ、僕の顔など見たくない人もいるだろうが…。
写真:ミシガン大学での講演。だんだんと「いい気」になってきたころかな。
 
 そんなわけで「堂々とした」(ように見える)講演はまずまず順調に終了した。次はお待ちかねの(だれが!?)質疑応答だ。日本語の講演会でも、何を訊かれるかわからない質問コーナーはいやなものである。ましてや英語なら…。戦戦恐恐としている僕に対して、たくさんの質問が飛んできた。それだけ講演内容に興味を持ってくれたのだから、ありがたいことではあるが、さあたいへん…。「Yes, No」で答えられる質問などほとんどない。さすがはディスカッション好きのアメリカ人、一つ一つの発言がすでに演説調になっている。「だからおっさん、英語はあまりできませんって最初に言ったろう…」と心の中で呟きながら、なんとか応答していく。しどろもどろとは、こんな状況なのだろう。
 原稿を準備している時にプリンストンの院生に「難しいクエスチョンがきたら『It is my homework』とか言ってごまかせばいいんですよ」と実践的なアドバイスをもらっていたが、さっそく彼の助言も役に立った。我ながらミシガンの講演会でもっとも笑えたのは、ある老教授の長い質問に対して、思わず僕が「わかんねえなあ」と日本語でささやいたのをマイクが拾ってて大うけした時だった。日本研究センターのイベントだけあって、日本人や日本語ぺらぺらのアメリカ人も相当いたようだ。 てなわけで、僕の開幕戦は自分としてはそれなりに満足できる内容だった。おせじももちろんあったろうが、主催者、来場者から多くの「お褒めの言葉」も頂戴し、単純な僕はかなり「いい気」になって、その晩の「ただ飯」をがつがつ食べたのだった。

2.バークレーでのストリップショー!?

 さて、初打席がうまくいくと、だれしも欲が出てくるものだ。ミシガンでのトークは僕としては堅実な内容でまとめたが、もう少し冒険してみたい…、僕本来の「公園」をめざさなくては…。次なるレクチャーは4月15日、UCバークレーにおいてである。バークレーは前回報告したように、大学院生時代の僕の思い出の地だ。UCでの講演は、1月にバークレーを訪ね日本史の教授と会った際に決まった(そう、遊び歩いてるだけじゃなくて、ちゃんと仕事の話もしてきたのです、とりあえず…)。
 ミシガン用の原稿を書き終え「棒読み」練習を始めたころ、それに平行して新しい原稿の執筆に取り掛かった。怠け者の僕としては上出来といいたいところだが、なにせ原稿がないことには打席にすら立てない。筋書きのない…というわけにはいかないのだ。今回はせっかくのチャンスだから、プリンストンに来てから取り組んでいる研究について話をすることにした。テーマは日系新宗教(天理教)のアメリカでの布教状況。ニューヨークやサンフランシスコでの聞き取り調査、英訳された教典などを使って原稿を組み立てた。
 日系宗教の海外伝道というのはさほど珍しいトピックスではないし、先行研究も豊富だ。さて、どこで僕のオリジナリティを出すか…、どうすればおもしろい公園会になるか…。よくよく考えた結果、これまたプリンストンに来て体験している合気道の話を組み合わせることにした(卑近な例に頼ってしまうあたりが安易というか、奥深い「高遠」のできない僕の未熟さである)。
 演題は「『柔道』、それとも『合気道』-天理教のアメリカにおける布教戦略-」(「"Judo" or "Aikido": Propagation Strategies of Tenrikyo in the United States」)。ミシガンのよりはおもしろそうですか…?アメリカ天理教の活動については(たぶん)「テリヤキ」で改めて触れると思うので、今回は詳しく述べない。
 簡単にいうと、天理教のアメリカ布教史を概説し、その抱える問題点(異文化伝道の難しさ)を指摘した。宣教に際して、「日本」にこだわる考え方を「合気道型」、「国際化」ということで、日本でのやり方とはある程度違うものを採り入れる発想を「柔道型」と定義して、ああだこうだと分析してみた。いつもながら僕のパターン化は強引だし、天理教、日米の比較文化論については、まだまだ掘り下げていかねばならない点が多く残っている。だから、バークレーでの講演は文字どおりの「中間報告」というものだった。
 内容の不十分さを補おうと、バークレー原稿では英語の諺も多用してみた。石の上にも3年、習うより慣れよ、急がば回れ…。なんだか自分に言い聞かせつつ原稿を書いた。また、時事問題も少しだけ織り交ぜてみた(などというとかっこいいが、じつは「ブッシュ大統領はイラクとの戦争なんかせずに合気道を習えばいいのに…」と、ぼそっと呟いただけなのだが)。僕の諺のおかげかどうか、ミシガンの時ほどの来場者はなかったものの、すくなくとも「笑い」の面ではミシガンを上回る盛り上がりだった。
写真:UCバークレーでの講演。静かに、まじめに始まったレクチャーは…

 天理教について一通り説明した後、日本文化のアメリカでの普及事例として、宗教(天理教)と武道(合気道)はどこが違うかという話題に移っていった。日米の道場の相違についてのエピソード披露に続いて、合気道の「技」の話をする際、やおら上着を脱ぐ。すると、下から合気道の写真がプリントされた派手派手のTシャツが登場する「仕掛け」だ。これはアメリカ人にもうけた!
 じつは、この着せ替え人形作戦は、昨年の「みんぱくゼミナール」で初めて使った手なのだが(勝手に「あの時は好評だった」と思い込んでいる)、人前で服を脱ぎ捨てるというのは、なかなか気持ちいいものだ(癖になりそう…!?)。まあ、バークレーの開放的な雰囲気に誘われての試みだったとしておこう。
写真:脱いだらビックリ…!心も体も身軽になって舌好調!
 
 このように書いてくると、パフォーマンスのことばかり気にして、中身はいまいちだったのではとのお叱りの声が聞こえてきそうだが、幸い「おもしろかった」「斬新な切り口だった」といった好意的な感想も頂戴できた。ミシガンの場合同様、質疑応答では悪戦苦闘したが(まあ、「わかんねえなあ」が出なかっただけ進歩したかな?)、その後の食事会では絶好調。質問に答える時は思うように動かなかった我が口も、ディナーの際は「口は物を食べるためにあるのだ!」と自己主張するかのように、パクパクと大活躍だった。
 バークレーの後、4月22日にはスタンフォード大学、5月7日にはプリンストンで講演を行なった。さすがに新しい原稿を書く余力はなく、スタンフォードではミシガン原稿を、プリンストンではバークレー原稿をほぼそのまま使った(すいませーん…)。場数を踏めばそれだけ落ち着き、あるいはずうずうしさも出てきて、多少は英語らしさも増していた(と思う)。
 プリンストンでの講演は、僕にとっての今シーズン最終戦(やけに短い「ペナントレース」でした…)、しかもお世話になった教授方、友人、英語のチューターたちを前にしての「公園」だったので、服を脱ぐ手にも気合が入った!?フリー・トーク(といっても原稿を用意したのだが)でプリンストン生活の思い出なども語り、プリンストンの充実した環境の中で研究できたことに対し謝辞を述べた。それは社交辞令でなく、僕が訪問したアメリカのいろいろな大学と比較しての率直な感想だった。
 講演は和気藹々とした雰囲気の中で終了し、僕をプリンストンに招聘してくれた日本史の教授からも「この部屋でストリップショーをしたのは、あなたが初めてです」とのお褒めの言葉(?)をいただいた。「いい気」になった僕は、最後には「終わりよければ、すべてよし」(「The end crowns the work」)の諺を挙げて、天理教に関する調査を続け、論文を完成させることも公約した。そう、すばらしい「終わり」を迎えるためにも、残り3ヶ月余、もう一頑張りしなくては…。
写真:プリンストンでの講演終了後、レストランにて(まだ酔っ払う前です)。
 
 というわけで、今回は長い「キャンプ」、そして短い講演「シーズン」のお話でした。蛇足ながら自慢を少々…。
 ミシガンでの講演原稿は、同大学が発行している『Journal of the International Institute』に、バークレー原稿は天理教アメリカ青年会の機関誌『Progress』に、それぞれ掲載されることになった。研究者の端くれとしては、自分の研究成果が活字になるというのは、やはりうれしいことである。貴重な(?)「テリヤキ」を休んで取り組んだ長い「キャンプ」の結果が、ホームランとはいわぬまでも、しぶいヒットとなって報われたと、いささか自画自賛している。「威張るなら、もっとメジャーな英文雑誌に載ってからにしろ!」と言われそうだが、それは我が後半生に期待するとして、まずはめでたし、めでたし…。
 蛇足ながらお詫びを少々…。今回はむさくるしい「顔」の写真ばかりで恐縮です。ますますファンがいなくなりそう…(おっと、最初からいませんでしたね)。
[2003年5月]