研究テーマ・トピックス|塚田誠之
4.研究の要点
4.2 壮族の文化変容
以上に社会変動に関する検討の要点を記したが、次にこうした社会変動にともなって、壮族が漢文化をどのように受容してきたのか、そして壮族の文化がどのように変化してきたのか検討した。
4.2.1) 明清時代の広西土官地域において、壮族の土官がいかにして漢文化を受容していったのか、受容に際してどのような特徴が見られたのかを検討した。衣食住という人々の身近な生活文化をはじめ、婚姻、年中行事などを検討の対象とした。
土官地域における壮族の漢文化の受容について、土官層はいち早く漢文化を受容し、そして領民に対してはそれを制限することによって漢文化を専有した。制限は服飾、住居、食文化、婚姻習俗など諸般に及んだ。土官層による漢文化の受容の時期は、明代中期・末期以降であって、とくに清代に入ると彼らは相当に漢化した。
ただし、他方で壮族的要素も維持された。土官は必ずしも壮族文化を全面的に否定したわけではなかったのである。たとえば、中国的服装の受容過程において、漢族の観念(黄色を天子の服色とする)とは異なる壮族的要素(白色を高貴の色とする)もまた見られた。食文化において、壮族に伝統的な糯米食品、ナレズシ・ナマス・ビンロウジなど両広地域に共通のものに対する嗜好性が維持された。婚姻習俗についても、対歌への参加、同姓婚が維持された。年中行事について、3月3日の墓参など壮族的要素が維持された。なお、土官は漢族的行事を受容したが、その方式として、そのままの受容と部分的な受容(ないし変更が加えられる)との両方の場合が見られた。
- モチつき。壮族はモチ米食品を好む(龍勝各族自治県)
土官は漢文化を受容し領民にさまざまな制約を加えたが、しかし領民のもつ文化伝統を否定するような政策はとられなかった。住居、食文化、婚姻習俗において伝統的方式が禁止されたわけではなかった。
土官による漢文化の受容の目的として政治的意図が指摘される。領民に対して制約を加えることによって自らを領民と区別し、漢文化を自らの権威と権力を主張する標識として用いたのである。
4.2.2)文化の構成要素の一つであり、一年を周期として一定の時期に慣例的に行われるのが年中行事である。年中行事はさまざまな儀礼や習俗を包含し、文化要素の一つとして重要である。ここでは年中行事について、壮族のもとに現在見られる年中行事がいかに歴史的に形成されてきたのか、明清時代を中心としながら、地域差にも留意しつつ、年間に行なわれる行事ごとの詳細な検討を行った。検討を通じて以下のことが明らかになった。
壮族の年中行事はその成立過程の上から二つの類型に大別される。それぞれの類型の中ではさらに細かい下位区分がなされる。
- 正月の龍舞。漢族から受容した行事の一つ(靖西県)
類型1 漢族から受容し、その内容も漢族的な行事
(ア)受容した後に普及した行事(漢族のもとで内容が変化し壮族のもとに古い方式が残された場合をも含む)――除夜・正月の行事、元宵節、社神節、3月3日の墓参、端午節、竈神祭。
(イ)受容したもののさほど普及しなかったか、ほとんど受容されなかった行事――立春、4月8日の灌仏会、6月6日の天節(書籍衣服の虫干し)、七夕、重陽節、寒衣節、冬至節。
- 中元節で紙銭を焼いて祖霊に捧げる場面(龍勝各族自治県)
類型2 漢族的要素と固有の(ないし非漢族的)要素が併存する行事
(ア)行事自体は漢族から受容したか、もしくは期日・名称の上で漢族的要素が認められるものの、行事の構成部分に壮族の独自性が認められる行事――対歌(正月・元宵節・社神祭・3月3日・端午節・中元節・中秋節などに行なわれる)、行事食品としてのモチ・チマキなどの糯米食品(多くの行事に見られる)、牛魂節、明代における花婆祭など。
(イ)壮族独自の行事であるが、内容に漢族的要素が認められる行事――莫一大王祭、マーグワイ節、霜降節など。
(ウ)由来が不明であるが、ある時期から内容的に漢族的要素が見られる行事――田植祭、6月の土地神祭、中元節、中秋節、10月収穫祭 など。
これらの類型や下位区分には、程度の強弱こそあれすべてに>漢族的要素が見られる。1はもとより、2にしても漢族的要素が認められない行事はない。行事内容に壮族の>独自性が見られる場合でも、それは漢族的行事の構成部分に組み入れられており、また壮族に起源を持つ行事の場合でもその内容に漢族的要素が認められる。この点から、壮族の年中行事における壮族・漢族的両要素の並存、複合性が指摘される。
年中行事の成立過程において地域差が形成された。それは、自然環境、漢族との社会関係の濃淡、政治組織形態の相異、来歴の多元性などが複雑にからみあって形成されたであろう。それは次のA、B、C3点から説明される。
- 歌掛け。壮族は歌を好む。ここでは男女それぞれ数人ずつのグループの間で行われる(靖西県)
A.(a) 広西の西部・西北部・北部と (b) 東部・東南部、(c) 中部の地域差。漢族との政治・社会関係が地域差の形成の要因として考えられる。漢族的行事の受容の時期の早晩やその浸透度の高さは (b) → (c) →(a) の順となる。(c) の地域で漢族的行事が受容され独自の要素が消滅する傾向が顕著に見られるのはほぼ清代中期以降であり、その時期からすると漢族の政治・社会的影響の受容の時期と軌を一にしている。
B.政治組織形態の相違(土官地域と直轄地)による地域差。土官の分布状況からすれば先のAとも重なる部分がある。また漢族との政治的関係の相違が地域差の形成の要因として考えられる。
C.来歴の相違(移住と土著、移住の場合析出地の相違)による地域差。たとえば莫一大王祭は南丹州付近からの移民によって広西北部に広まった。
こうした地域差の存在は壮族の年中行事のもう一つの特徴である。
4.2.3)年中行事の地域差について、各地の壮族・漢族間関係のあり方の相違に即して検討した。ここで、行事の形成史のみならず現在の状況にもふれた。検討を通じて次のことが判明した。
広西各地の壮族の年中行事における漢族の影響の受容について、広西の中でも北部と西部に壮族の独自性が比較的よく保持されているが、中部、東部になるにつれて「漢化」の度合いが強くなって行くこと(ただし北部や西部でも独自の要素と漢族的要素が併存する)、この地域差は珠江水系の河流にもほぼ重なるであろうことが判明した。たとえば、広西北部の龍勝各族自治県の龍脊地方では、壮族と湖南出身の漢族移民との間には、莫一大王祭・3月3日の行事や対歌が壮族のみに行われ、壮族に行事食品としての糯米食品に対する嗜好性が強く、また冬至節と竈神祭は壮族のもとでは行われる場合が少ない。さらに中元節の期日や供物・嫁出した娘の里帰りなど随所に相違が見られる。
- 旧暦3月3日の墓参。方式は漢族のそれと変わらないが供物には五色のオコワが欠かせない(靖西県)
また、広西西部の靖西県では、壮族と「客家」(解放後に壮族に族籍を変更した)との間には、墓参の時期、対歌、収穫祭など農事関係の行事、さらに行事食品(糯米食品)などの面で相違が見られる。同じく広西西部の百色市において、壮族と漢族「蔗園人」との間にも先のような墓参時期や行事食品の面での相違は見られる(ただし、靖西県の場合よりは漢族の影響が強い)。広西中部の柳城県大埔鎮では、壮族と客家との間には、王爺祭の有無、冬至節・竈神祭を行う場合の多寡、中元節の期日や4月8日(客家にはない)などの行事などに相違が見られる。しかし、漢族の影響が先の龍勝・靖西・百色の場合よりは強い。広西東部の桂平県では壮族と広東人との間には中元節の期日の相違が見られる程度で、壮族のもとでの対歌・3月3日の行事はつとに廃れる傾向にあり、先の何れの地域よりも早期に漢族の影響を受け、その度合いも強い。
4.2.4)年中行事のうち広西北部の龍勝県で行なわれた年中行事「莫一大王祭」について、参与観察に基づいた検討を行い、行事を通して見えてくる壮族文化の特質を考察した。ここではフィールド・ワークを通じて得られた資料を中心とした。
莫一大王神とは、人々の無病息災や生活の順調・村落の土地を守護し、災害や疫病を鎮めたり予防する霊力を持ち穀物の豊作を保証する壮族の神祇である。その伝承は主に広西北部・西北部に広がっている。その伝承には壮族がたどって来た、服従と反抗の両現象を個別的に生起しながらも大勢として中国王朝の支配下に編入されて行く歴史的過程が象徴的に示されていると考える。
筆者が参与観察をしたのは1990年7月23日(旧暦6月2日)に龍脊の馬海寨で行われた莫一大王祭である。それは、田植えを終了し収穫に向けて除草が開始される時期において、寨老を中心として寨を単位として、漢族の社祭と同様の方式で祭り、五穀豊穰や寨の土地と人々の守護を祈願する祭りである。その祭祀方式には、醵資の平等性、牲肉の献供と分配、神前での共食、祭壇の神名中における社神の存在等の点において社祭方式の導入が認められた。霊験の上でも社神との重複性が認められる。漢族のもとで行なわれていた社祭が壮族のもとにも移入されて普及し、さらにその祭祀方式が莫一大王祭の行程に導入されたものと考えられ、したがってそれは壮族の神を漢族の祭祀方式を用いて祭る行事である。漢族のもとには存在しない神を祭ることからすればそこに壮族としての主張がなされている。それは壮族・漢族の両要素の複合的な祭りであると言える。
なお、莫一大王神は広西西北部を故地とし、そこから広西北部や東南部に移住した集団に限定されるのであり、他の来歴を持つ壮族のもとには見られないことからすれば、壮族の来歴の多元性を指摘することができる。
- 莫一大祭。切り分けた豚肉を平等になるよう量っているところ。それらは各戸に分配される(龍勝各族自治県)
4.2.5)「不落夫家」婚は壮族をはじめ中国南部諸民族に特有の婚姻習俗として知られる。ここでは壮族のそれについて歴史的な変化のプロセスからその特質を見出そうとする検討を行った。検討を通じて次のことが判明した。
明末から清代を経て民国期に至る時期に婚姻に関わる多くの習俗が変化した。すなわち、(ア)配偶者の選択方式において、当事者主導から父母主導型への変化がみられた。(イ)結納品・相性占い・婚礼までの過程も変化し漢化する傾向にあった。相性占いは、漢俗の「八字」を用い、婚礼までの過程は複雑化し漢俗に近づいた。(ウ)嫁入り行列のやり方は漢化し、夫方での婚礼も漢人のそれを受容した。しかし、伴娘たちが婚礼の前に嫁方で開催される酒宴で盛大に唱歌を行ったり、婚礼の日、花嫁に随行し夫方の者との間で夜通し対歌が行われるなど伝統も残された。なお、花嫁が里方に戻る行為は「回門」といわれたが、漢人の回門とは内容は異なっていた。(エ)生家へ戻った嫁は農繁期や正月などの年中行事の際に夫方へ来て短期間逗留したが、家事・労働には関与しなかった。周囲から強制もされなかった。不落夫家の期間中、生家・夫家の双方から自由な生活を過ごすことが社会的に認知された。しかし清末以降、解放直前の時期までには、嫁が夫方へ帰る頻度と時間、不落夫家の期間・終了の契機が変化した。 不落家期間中の花嫁の自由な行動に対する社会的評価も漢人的なそれへと変化しつつあった。(オ)初生児の出生後に「満月酒」など大規模な祝宴を行い、あたかも事実上の婚礼披露宴のようであった。所によってはその際に持参財を搬入した。
- 婚礼の受け付け。この場合、弧度もの出生後に行われたので、持参財とともに嬰児用の品も見える(龍勝各族自治県)
不落夫家の本質として、一つには初生児の出生(とともに持参財を搬入した)時点で婚姻が成立するという点にあって、それ以外の早婚(父母包辧婚)、女性の労働力の高さ、夫家での虐待に起因する女性の結婚に対する不満などのさまざまな要素は後からつけ加わった本質とは無関係ないし関係が希薄なものであろうと思われる。自由恋愛を経て結婚した後にも不落夫家が行なわれたのである。
漢文化を受容しても婚後の別居~新婦の受胎による夫方への定居という部分は表面上は変わらなかったことからすれば、壮族にとって不落夫家とは漢俗を受容しても自らの文化的特徴を残すことのできる婚姻方式であったように考えられる。