ある朝、調査のためにハノイを西に発(た)った。1時間半もバイクで走るとデルタが終わり、丘陵地にさしかかる。坂の途中で折しも夕立に見舞われた。すぐに玄関先で駄菓子を売る民家に雨宿りに立ち寄った。
少数民族のムオンが多い地域である。茶をすすりながら、40歳くらいとおぼしき女主人に「お宅もムオンなの?」と聞いてみた。「わたしと母はベト人だけど、父はムオンだよ」と言う。続けざまにベト人らしい饒舌(じょうぜつ)さで一人語りが始まった。「小学校の先生だった父は、本当に正直な人でね。ウソは絶対言わない。まがったことは絶対しない」。よくある身内の自慢話か、と思いきや、あとの展開はわたしの予想を大いに裏切った。父がいかにもムオンらしい正直者だったせいで、家族は何十年も貧乏させられたという愚痴に転じたのだ。
少数民族の人々は、正直を美徳としてしばしば口にする。いっぽうでベト人商人たちは、少数民族はバカ正直だと嘲(あざけ)ることがある。地縁と血縁でがんじがらめの地元人と、無縁の地を求めてやってきた商業民との価値観の違いだろうか。
雨はあがった。ベト人として生きることを選んだ女性のもとを辞し、旅路を急いだ。
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