旅・いろいろ地球人
宗教とアルコール
- (2)酒宴で開く、別の時間への扉 2010年2月10日刊行
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太田心平(研究戦略センター助教)
酒などの供物を捧げ祖先祭祀を始める人々宗教儀式に参加している時、人は自分ではない誰かになる。なるべく自我を消し、儀式が由来する遥(はる)か昔の人物になりきって、時間を過ごす。
韓国の祖先祭祀(さいし)を見ていて、私は常にこう思わされる。酒などの供物を捧(ささ)げる役の人も、参列して拝礼するだけの人も、始まりこそぎこちないが、司会者が式次第を高らかに読み進めるにつれ、みな聖なる時間に包まれて、決められた言動だけに終始していく。
この聖なる時間の終わりを告げるのが、「禮畢(イェーピール)!」という司会者の叫びだ。自我に目覚めたかのように、突然みな自由に動きだし、後片づけを手伝ったり、互いに挨拶(あいさつ)を交わしたり、携帯電話をいじったりする。ただ、個人の言動は再びどこかぎこちない。
祭祀の後には「飮福(ウムボク)」、つまり供物のお下がりで開く酒宴がある。午前であっても焼酎が行き交うその席で、人々はようやく完全に自我を取り戻すようだ。
聖なる時間の後の自我への復帰が酒宴で可能になるのだとすれば、では聖なる時間の始まり、自我からの離脱の方は?実はこれまた酒宴だったことに後から気付かされる。祀(まつ)る側が恭しく供し、祀られる側が飲む、供物の酒である。シリーズの他のコラムを読む