畑をほうきで掃いて手入れをすると聞くと、驚くかもしれない。しかもニューギニアの人びとが山間の焼き畑で、というとなおさらだろう。
私が初めてニューギニアのマンドッグ島に行ったのは、1974年で、当時25歳だった。島人はもともと漁労民で、交易民であった。カヌーを操り、本島のヒューオン半島とニューブリテン島間を往来して物品を交換し、社会的政治的関係も築いていた。
しかし第二次世界大戦前後からか、畑作を始めた。慣れない農作業はあまり上手ではない。が、じつに丹精をこめて仕事をしている。
ところで、マンドッグ島民が交易で土器を得ていたヒューオン半島の北海岸に、ロシアの人類学者で生物学者でもあるニコライ・ミクルホ=マクライは、今から140年も前の1871年から15カ月間、滞在している。その時、彼もまた25歳であった。以後、この地を2度訪ね、合計3年間弱を過ごした。
その彼の日記にも、住民たちがいかに丁寧に畑作りにいそしんでいるかが記されていて興味深い。
彼は奴隷貿易に反対し、住民自治を計画するなど、ヒューマニストの学者として知られる。そして今でもここはマクライ海岸と呼ばれている。
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