旅・いろいろ地球人
アメリカ大陸の物作り
- (6)コーヒーより人を 2012年2月16日刊行
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中牧弘允(国立民族学博物館教授)
弓場農場内の芸術の広場日本人のブラジル移住は1908年にはじまる。行き先はサンパウロ州内陸部のコーヒー農園だった。移民は契約労働者として第一歩を踏み出したが、次第に自作農に転じていった。1925年に着手されたアリアンサ移住地は当初から定住をめざす人びとが入植した。長野県、鳥取県、富山県などの移住組合にまじって民間の日本力行会も移民をおくりこんだ。力行会のリーダーだった永田稠(しげし)(長野県出身)は「コーヒーをつくるより人をつくれ」という高い理想を掲げ、労働に明け暮れる人びとを鼓舞した。
35年、ブラジルの開拓地に「新しい文化の創造」をめざして、弓場(ゆば)勇(兵庫県西宮市出身)もアリアンサ移住地に弓場農場をひらいた。武者小路実篤の「新しき村」をモデルに共同体の建設にとりかかったのである。そこでは芸術活動が重んじられ、戦後、移住が再開されると、彫刻家や舞踊家が移り住んだ。開拓の姿を演じる弓場バレエ団は住民がみずからつくりあげたもので、サンパウロや日本でも公演活動がおこなわれている。
日本人移民は農業の分野でブラジル社会に多大な貢献をしてきたが、教育や文化の面でもユニークな活動を展開してきたのである。
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