民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司― 巣としての住居
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※写真 大阪スタイル 1998
佐藤 とらわれているのは、結局、家が個人の持ち物とおもうからでしょう。しかし、人間がつくる家というのは、これまで個人のものであったためしはない。発掘された新石器時代の家から、もうそれは複数の人間が住むためのものなんです。あえて家族とはいいませんけれど、家のなかにひとりで住んでいるわけじゃない。おなじ空間に一緒に暮らせば当然人間関係が生まれますよね。人間だけが本能によらずにそういう特殊な状況をつくりだしてきた。家というね。そうした歴史から考えて、現代のワンルーム・マンションのように、家が個人化、私物化してゆく現象はかつてなかったことです。それは確かに個性をはぐくむんですけれど、そのせいで個人と周囲の社会との齟齬が大きくなるのは仕方ないでしょう。周りの人に理解されないから、現代人はとても大きな精神的不安を抱えこんでいる。
家の原点は、自分ひとりの巣ではなくて、複数の人間が共存するものだということを知っておかないと、家の可能性も将来も見えてこない。たとえば、オウム真理教の事件がありましたが、彼らは言ってみれば大きな家のなかで一種のコミューンのような人間関係を築こうとした。だけど、そうした家には世代交代の技術がやっぱりないんですよ。彼らが壊そうとしたある種の社会があるにしても、彼らの子供たちにとっては、まさにその彼ら自身が拒否すべき対象になっていることに気がついていない。彼らが築いたのは、所詮スクラップ・アンド・ビルドを前提にした家社会だったのです。それを理解しないと、自分たちがやっていることの無意味さがわからないですよね。
家の原点は、自分ひとりの巣ではなくて、複数の人間が共存するものだということを知っておかないと、家の可能性も将来も見えてこない。たとえば、オウム真理教の事件がありましたが、彼らは言ってみれば大きな家のなかで一種のコミューンのような人間関係を築こうとした。だけど、そうした家には世代交代の技術がやっぱりないんですよ。彼らが壊そうとしたある種の社会があるにしても、彼らの子供たちにとっては、まさにその彼ら自身が拒否すべき対象になっていることに気がついていない。彼らが築いたのは、所詮スクラップ・アンド・ビルドを前提にした家社会だったのです。それを理解しないと、自分たちがやっていることの無意味さがわからないですよね。