民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司― 巣としての住居
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佐藤 写真家の都築響一さんの『東京スタイル』(京都書院)や『賃貸宇宙』(筑摩書房)のような仕事をみても分かるけれど、現実に私たちは家という空間のなかで自我をはぐくんでいるわけですよね。でも、そういう見方がもっている危険もやっぱりある。都築さんが紹介している話ですけど、自分の裸を見られるのは何ともないけど、部屋を見られるのは恥ずかしいとか。部屋のたたずまいが、自分自身の身体以上に自分というものを赤裸々につたえてしまう。都築さんの撮る写真がおもしろいのは、家の空間から人間性の本質みたいなものを見せてしまうからでしょう。部屋に散乱する本や人形とか、生々しい生活の痕跡を見ていると、きれいな建築写真などにはまったく欠けているリアリティがあります。だけど、人間があまりにも空間に依存して、自分ひとりの巣のようなあり方を家に求めていくのは、きっと危ない方向なんですよ。そこまでして人間の個性をはぐくんでも、生きていく上であまりいいことはないかもしれない。都築さんの写真の主は基本的に都会に住む単身者なんです。だから、対象が夫婦や複数の人間の住む家になると、おなじ価値観を共有したコミューンにしか見えない。そんな理想郷のような社会には反対にリアリティがないんですよ。
※写真 大阪スタイル 1998
佐藤 とらわれているのは、結局、家が個人の持ち物とおもうからでしょう。しかし、人間がつくる家というのは、これまで個人のものであったためしはない。発掘された新石器時代の家から、もうそれは複数の人間が住むためのものなんです。あえて家族とはいいませんけれど、家のなかにひとりで住んでいるわけじゃない。おなじ空間に一緒に暮らせば当然人間関係が生まれますよね。人間だけが本能によらずにそういう特殊な状況をつくりだしてきた。家というね。そうした歴史から考えて、現代のワンルーム・マンションのように、家が個人化、私物化してゆく現象はかつてなかったことです。それは確かに個性をはぐくむんですけれど、そのせいで個人と周囲の社会との齟齬が大きくなるのは仕方ないでしょう。周りの人に理解されないから、現代人はとても大きな精神的不安を抱えこんでいる。
家の原点は、自分ひとりの巣ではなくて、複数の人間が共存するものだということを知っておかないと、家の可能性も将来も見えてこない。たとえば、オウム真理教の事件がありましたが、彼らは言ってみれば大きな家のなかで一種のコミューンのような人間関係を築こうとした。だけど、そうした家には世代交代の技術がやっぱりないんですよ。彼らが壊そうとしたある種の社会があるにしても、彼らの子供たちにとっては、まさにその彼ら自身が拒否すべき対象になっていることに気がついていない。彼らが築いたのは、所詮スクラップ・アンド・ビルドを前提にした家社会だったのです。それを理解しないと、自分たちがやっていることの無意味さがわからないですよね。
家の原点は、自分ひとりの巣ではなくて、複数の人間が共存するものだということを知っておかないと、家の可能性も将来も見えてこない。たとえば、オウム真理教の事件がありましたが、彼らは言ってみれば大きな家のなかで一種のコミューンのような人間関係を築こうとした。だけど、そうした家には世代交代の技術がやっぱりないんですよ。彼らが壊そうとしたある種の社会があるにしても、彼らの子供たちにとっては、まさにその彼ら自身が拒否すべき対象になっていることに気がついていない。彼らが築いたのは、所詮スクラップ・アンド・ビルドを前提にした家社会だったのです。それを理解しないと、自分たちがやっていることの無意味さがわからないですよね。