旅・いろいろ地球人
伝統と電灯
- (2)なくなった「村の電力局」 2012年3月15日刊行
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樫永真佐夫(国立民族学博物館准教授)
テレビに集まる子どもたち(1999年)10年ほど前だと、ベトナムの山あいにある黒タイ族の村でよく見た光景がある。ズボンを脱いだ男の子たちが、列をなして畦(あぜ)を歩いていく。私は彼らを「村の電力局幹部」と名づけて笑った。彼らは水路の堰(せき)を固め、水量を調節し、水力自家発電機の動作を確認しにいくのだ。やがて村長宅にある唯一のテレビに、お待ちかねの番組が白黒で映し出される。各家庭から集まってきた老若男女が、席をつめあい、息をつめて見入った。
それから数年後、村人たちの願いがかない、公共の電気が各家庭にもたらされた。最初に買う家電はテレビである。そのころにはテレビの局数も増え、朝から晩まで番組が放映されるようになっていた。しかもスイッチ一つ押せばよい。娯楽の中心は家でのテレビとなり、よそのお宅への行き来も減った。村人たちは、はるか遠くの大都市からベトナム語で発信されてくる情報に浸り、ことばと生活様式は急速にベトナム化した。
今では「村の電力局幹部」たちもすっかり大きくなっている。学校や職探しのために村からでていった者も多い。村に電灯がともると、古くからの生活文化は、民族の伝統などとよばれて照明があてられないかぎり、どんどん忘れられていくのだろうか。
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