国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司―フィリピン・ルソン島の民家と日本の古代住居

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写真 佐藤 最初の海外調査地は、フィリピンのルソン島の山地のボントックというところです。ある村で実際に伝統的な家を建ててもらったんです。その家作りを最初から完成まで8ミリカメラで追うという仕事でした。当時の8ミリカメラは、今のビデオカメラと違って、カセット1本で4分しか撮影できなかった。おまけに、村には電気もない。そういうところに、カセットを30本持って行った。村についての予備知識はほとんどなくて・・・。それが私のはじめてのフィールドでした。実験人類学みたい(笑)。
写真 フィリピン・ルソン島ボントック 家屋建設 1981
※写真をクリックするとスライドショーをご覧いただけます。
─ 家一軒作るのにどのくらい時間がかかるんですか?
佐藤 2ヶ月間かかりました。というより、滞在期間が2ヶ月しかなくて、そのあいだに完成してもらうように作業をすすめてもらったのです。とにかく儀礼が多くて、森に行って木を切る前に儀礼、無事に切り終わったら儀礼の後の休息日。仕事の節目節目には必ず儀礼と休息がある。そういうのを繰り返しながらやっていくから、こちらがいくら急いでも、なかなか事はすすまない。結局2ヶ月まるまるかかっちゃったんですよね。建設の予算は用意してきたんですけど、お金を出したからって仕事がはかどるわけじゃない。どうにもならない。それが最初のフィールドだったんです。そして、人類学的な研究へのきっかけになりました。
 住まいの原型を求めるということでいうと、もうひとつ、じつは日本の古代住居のことを研究していました。当時、竪穴住居といえば、復原された登呂遺跡のような草葺き屋根が常識だった。けれども、私は学生のころから、それは嘘であるとずっと主張していた。だって、シベリアにしても、北アメリカにしても、そんな竪穴住居はどこにもない。竪穴住居の屋根は土で覆われているのが一般的だし、入り口は土饅頭のような屋根の上にある。日本の竪穴住居だけが特別というなら、反対にそうなることの根拠を説明しなければならない。今では、日本の竪穴住居も土葺の可能性を考える人がふえてきましたけれど、その頃は、教科書に載っている登呂遺跡の竪穴住居が土葺の屋根だったかもしれないなんて誰も思っていなかった。だから、かなり革新的な主張だったと思います。そういうことを人類学的な資料を使って書きました。日本の建築史学のなかで、縄文・弥生から現在まで、住宅史の筋書きを作ることをまじめに考えていたんです。
写真
─ しかし、その原型というのは何の原型?
佐藤 歴史的にみると、登呂遺跡のような日本人の古代住居のイメージが、実は戦後につくりあげられたものにすぎないということ。住居の原型だと思われているものが実はすごく新しいのかもしれない。少なくとも江戸時代には、天地根元宮造という登呂遺跡とはまったくちがった形式が古代の住居と考えられていた。それは考古学的な発掘の結果、まちがったイメージであることが判明してゆくのですが、登呂遺跡のような復原が戦後に受け入れられるようになるのは、戦後日本の民主主義と無関係ではないのですよ。天皇制が終わって、原始共産制のような農村社会を民主主義の理想にしていたから。登呂遺跡は農村にある茅葺き民家そのものでしょう。縄文、弥生時代には、まだ日本も日本人もないはずだけど、日本人の心のふるさとが一貫して農村にあるというのはとても居心地がよい考えですよね。縄文時代から自分たちの先祖は同じような家に住んでいたと・・・。近年、登呂遺跡にかわって吉野ヶ里遺跡が小学校の教科書に載るようになって、「ムラ」や「共同体」から「クニ」や「戦争」といったキーワードに力点が変化しています。興味深い現象だと思います。イギリスの歴史家ホブズボームらの「創られた伝統」という議論が知られる前のことです。それほど明確な問題意識があったわけではないですが。
※イラスト 竪穴住居復原案 1987
─ 話は前後しますが、フィリピンで作った家というのは、どんなものだったのですか?
佐藤 ボントックの家に注目したのは、ボントック人の家がおもしろい特徴をもっていたからです。東南アジアといえば高床住居ですが、ボントックは高床住居に住まない特殊な民族ととして民族学のなかでは有名でした。ところが調査をしてみたら、ボントックの家は、建築構造的には高床住居なんですよ。奄美の高倉のような構造をした。だけど、住人はわざわざその高床の下の土間部分に住んでいるのです。高床の上は儀礼の際に使っていたんですが、調査の当時はあまりそういう儀礼の意味もわからなくて、ともかく建築の機能だけでは理解できない不思議な住み方をする民族だと思っていました。日本の高倉と系統的につながるので、奄美からフィリピン、インドネシアと建築構造の伝播についても考えていました。
 
写真 写真
※写真左 フィリピン・ルソン島イフガオ 1981 / 写真右 奄美大島の高倉 1999
─ それでフィリピンの次には、実際にインドネシアへ行ったわけですか(笑)。
佐藤 当時、建築学のなかで、日本の周辺地域の民家に興味をもつとしたら、そうした系譜論的な興味は避けられないものでした。「稲の来た道」とかの議論にのって、ものすごくロマンを持ってまだ見ぬ建築を追いかけていた・・・。
 

【目次】
イントロ住まいの調査手法住まいの原型フィリピン・ルソン島の民家と日本の古代住居調査作業屋根裏の空間水上生活者バジャウと狩猟採集民プナン何のための住居住居に向けられたエネルギーマイホームの共同研究会消費財としての住居巣としての住居空間と人間関係ホームレス住居と記憶四冊の本重みを失う空間