国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司―消費財としての住居

[11/17]
─ 現在の日本人の住まいとか家とかに対する考え方は、インドネシアの農耕民や日本の白川郷の人たちの考え方なんかとは相当なひらきがあると思うんです。
佐藤 マイホームは購入し、消費するものですが、消費することによっては、なかなか共同体の、つまりマイホームを共有する目的を見出せないでしょう。もし今の家族が農耕民のように消費ではなくて生産の単位だったとしたら、たぶん家をもつことの意味もずいぶん異なるだろうとは思いますけどね。でも、そんな風に変わってゆく可能性はこれからもないでしょうから、そんな前提では話はできない。
写真
─ 消費財とおっしゃったけれど、確かに今の日本では家は車とほとんど同じような耐久消費財化していますね。こういう風になったのはいつ頃からですか? プレハブ住宅の普及のせいですか? 1980年代に住宅メーカーの営業の人たちが、家のことを「商品」といってるのにびっくりしたおぼえがあります。「新商品が出たから安くしておく」ってね(笑)。愕然としました。たぶんもうその頃はとっくに消費財化していたということなんでしょう。それほど昔のことではないですよね。
※写真 住宅展示場 1998
 
 
佐藤 マイホームの共同研究会のメンバーでもあった建築家の隈研吾さんは「住宅は資本主義を推進するエンジン」と言っています。産業化社会のなかで、家族は消費をになうように運命づけられてきたわけですね。住宅は最大の消費財ですから、この指摘はあながち間違いではない。
 2DKのプロトタイプとなった公団の51C型は1951年に誕生していますが、これは食寝分離を確保しながら核家族のための最低限の生活空間を提案したものでした。それ以降、日本の住宅はすべて何LDKといった言葉に集約されてしまった感がありますよね。ただ、住宅が商品化されるためには、住宅の間取りや部材が規格化されるだけではもちろんダメで、土地から切り離されて住宅市場が成立していく必要があります。ところが、いくら建物を安くしても、日本では土地が異常に高いから、本当に住宅が商品化に成功しているとも言い切れないのです。それ以上に、住宅の購買層になった核家族が消費財化することで住宅も消費されていくと言ったほうが真実かもしれません。
写真
─ 日本の家が消費財化しているという今の話ですが、さきほどプナンの家に禁忌空間がないという話がありましたけど、日本の家には禁忌空間がなくなっていると思うんです。その傾向はたぶんもっと前からあった・・・。昔の家だったら、例えば水木しげるのマンガにあるみたいに、普通の民家でも恐い場所とか、お化けや幽霊が出るとか出そうな感じがするスペースもあった。
※写真 郊外分譲地 1998
 
 
佐藤 そうですね。屋根裏のような得たいの知れない空間は天井でふさいでしまったし・・・。住宅にはかならず特定の人しかはいれない場所があった。民家の納戸はその典型ですけど、窓がないような閉ざされた部屋のなかで、主婦は子供を産んだり、農耕儀礼をおこなっていた。米や大切な家財をしまっていたので、今では納戸というと物置の意味になってしまいましたが、本来は夫婦の寝室です。そうした空間がなくなるのは、大正時代の生活改善運動の影響でしょうね。前近代的な儀式の慣行をなくしたり、床の間や玄関のような住宅内の格式ばった装置を否定して、住宅を家族本意の生活の場にしようとした。日本中で住宅空間から陰翳がなくなっていくのは戦後になってからでしたが・・・。
─ 現代の日本の住宅の特徴はまさにそれですよね。完全に世俗化されている。
佐藤 タブーの空間がなくなった。でも、私はそれでいいと思っているんですけどね。ただ困るのは、世代交代の技術がなくなってしまったことです。そちらのほうがむしろ問題で、住宅が商品化していくこと自体は別にかまわないと思う。自己完結していればね。日本の住宅事情ではそれがうまくいっていない。商品のようでいて、なんとなく商品じゃなくて、みんなが家を持ちたいと思う一方で、百年住みつづけるとか私たちは考えている。人生に一回しかできない買い物だから、買ったらもう孫子の代までそこに住むつもりでいるんです。だけど、都会に住んでいてそんな生活は望めないですね。子供の世代までひとつの場所に定住できる保証なんてどこにもないんですから。本来都市の住宅は個人の人生から切り離して理解しておくべきものなんですよ。住宅のサイクルは人の一生より長いんですから。ところが、日本でこうした問題が顕在化しないでやってこれたのは、今の木造住宅が20年とか30年とかで壊される、つまり、一代で消費されてしまう現実があったということ。そんな資源の無駄をいつまでも続けていけないことは明白でしょう。だから、今は住宅メーカーも100年住宅の開発に取り組んでいます。そうなった時に、本当に世代交代の技術をどうするかが問われるようになります。石造の家のように、たとえ人がそこで死んでも次の人が問題なく住めるというような、そういうあんまり陰翳のある空間は作らないほうがいいと私は思っています。
─ マイホームの研究会の話に戻りますけど、それをはじめたのは、水上生活者の家やプナンの狩猟採集民の住まいを研究したあと、もう一度現代の日本の住まいを考え直してみようという動機があったんですか?
写真
佐藤 どちらが先ともいえないんです。こうした研究をやっていく以上はやっぱり日本のことについて発言できないとまずいとは思っていました。よく誤解されるのは、建築の世界では民族建築のような領域をヴァナキュラー建築といって、近代建築批判の拠り所にされてきたのです。近代建築のインターナショナル・スタイルがダメだという人は、農耕民の家の土地に結びついた性格を、霊魂とか精神性とかいう言葉で、これみよがしに取り上げるでしょう。住宅は人間が住むためのものでない、などという主張はうってつけの近代建築批判になっていますからね。でも、私は自分の仕事を近代建築批判と位置づけているわけじゃない。
※写真 プレハブ住宅 1998
 
─ プナンの人たちの住まいと現在の日本の住まいとあんがい共通するところがあったわけですよね
佐藤 「住宅は住むための機械」ですからね、本当に(笑)。日本の住まいは、人間以外の、例えば霊魂とかそういうものを一切考えないプナンの家にとても近いし、バジャウの家船を見ても同じような感慨をもちます。死んでからのことは考えずに、まさに今いる人たちの生活がそこに見える。住宅にはあまり思い入れをもたないほうがいいんです。かえって煩わしいものだから、住宅にとらわれない生き方を模索するべきです。哲学者の発言でも、家は人間をはぐくむものであるとか、家と人との濃密な関係にばかり話がいくでしょう。バシュラールやボールノーがそうだし、日本でもそういう立場をとる人は多い。そういう言説ばかりとりあげられるから、へんに「家中心主義」になるんですよ。
 

【目次】
イントロ住まいの調査手法住まいの原型フィリピン・ルソン島の民家と日本の古代住居調査作業屋根裏の空間水上生活者バジャウと狩猟採集民プナン何のための住居住居に向けられたエネルギーマイホームの共同研究会消費財としての住居巣としての住居空間と人間関係ホームレス住居と記憶四冊の本重みを失う空間