国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.1 佐藤浩司―空間と人間関係

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佐藤 単身生活を可能にした社会はすばらしいものだとおもう。今、私たちは、国や家のためではなくて、自分自身のために生きていくことが可能になっているのですから。ただ私の感じている危惧は、単身生活者の背後には、必ずそれをささえている実家のような部分があるんじゃないかということなんですよ。何らかの形の共同で住む家がね。その上ではじめて独り身の自由な空間が営まれているのだとすると、束の間の享楽を味わっているだけで、親の介護の問題に直面したり、自分自身が年をとってくると旧態依然の家に回帰してしまう。独り身の自由をささえてくれる社会がほかにない。単身生活者が全く自由な人生をまっとうできる社会なら、それは本当にすごいことだけど、実際は、昔ながらの家の姿を覆い隠しているだけかもしれない。それは人間の住む家として完結していない・・・。
─ 必然的にそうなっているのかと思っていたんですが。例えば、1995年くらいから電話は携帯になって、すごい勢いで普及してしまったでしょう。しかし、だいぶ前からその気配があった。そちらの方へ行かざるをえないという。昔は、だいたい玄関の辺に電話があって家族でつかっていた。近所の人にまで貸したりなんかして。それから親子電話というのができてくる。一方ではポケベルなんていうものも出てくる。そうすると、結局みんなひとりひとりが電話をもつほうが便利だという方向へいく。みんな携帯という技術ができるのを待っていたのかなあと思う。それと同じように、住まいも日本ではだいぶ前から家が狭くても子供に部屋をひとり一室あたえるということがあったでしょう。そうすると、家も、独立したら自分の家を持ちたい、ワンルームでもいいから、という人たちがいっぱいいて、今度は共同生活が難しくなっているということがありますね。だから、今日本で単身生活者がものすごく多いというのも必然的にそちらの方向に行ったのかと思っていたんだけど、今のお話は戻るべき家があるんだということなので、そうではないということですね。
佐藤 人間関係が空間にとらわれなくなっているというのは否定しようのない方向だし、携帯電話などの情報メディアもそれを強めている。それを否定してしまっては話にならないんです。はじめに言いましたが、ひとつの家の中に住んでいるからといって、必ずしも親密な人間関係で結ばれている必要がなくなった。住んでいる人同士が、じつは別な場所と精神的につながっていることだってありうるわけですよね。現代人の抱える精神的不安の原因がどこにあるかといえば、個人の自我が周囲の人間関係をはなれてどんどん肥大化してゆく一方で、私たちは周囲の人間と協調しながら社会生活をおくらねばならないからです。だから、子供たちのひきおこす事件が世間をさわがせるたびに、その原因を家族や学校にもとめるのは見当違いな話なんです。彼らが悩むのは、自分自身の精神的な共同体と身の回りの社会の期待することが一致しないという現実なのですから。問題は、ひとつの家に住むということ、あるいは地域社会の住人であることにどういう意味付けをあたえてゆくかです。生活共同体の存在は否定できないわけですからね。空間をこえて親密な人間関係がひろがってゆく。その人間関係に注目して、空間にとらわれない社会のことを研究するのは人類学なら当然でしょう。ところが、親密さの問題とは無関係に、ひとつの空間に住んでいる人たちがいったいどういう関係を結べばよいかはよくわからない。今までだったら、家族の愛とか地域のコミュニティとかを求めていればそれで済んでいた。今は、それがかえって大きな精神的負担になってしまうのです。これからも住宅、というか、社会そのものが否応なく個室化されてゆくと思います。ところが、そうなった時に、子供の育児とか老人の介護とか、人間生活から派生するどうしようもない部分はまったく抜けてしまいます。だから、人間関係は人間関係でいいから、携帯電話でもインターネットでもつかって、世界中のどことつながってもいいから、とりあえず日本という国のそれぞれ家の中で、どうすれば辻褄が合う、自己破綻しないような社会を営んでいけるかということが問題だと思っています。だから、今まさに焦点にあるのは空間の危機なのです。人間関係の危機ではなくて。親密な人間関係を確かめ合う手段は、現代人はいくらでも手にしているのだから考えてもしょうがない。あるひとつの閉ざされた空間の中で、どれだけルーズな人間関係が営めるかということ。それを「家族」と私は呼ぶことにしているんですけど・・・。私の編集した住まいの本のなかで総研大の大学院生の行木敬さんが書いてくれたことですけど、「空間が家族をつくる」というのはまさにそういうことです。
─ さっきから、太古の時代からひとりの住まいというのはないといわれていますが、そうすると日本の現代社会はかなり特異な人間空間ですか。
佐藤 まったく特異な発展の結果なんだけど、人間はようやく自由を手にしかけているのかもしれない。でも、本当に自由にしていられるのは、じつは田舎に実家があって、そこにお父さんやお母さんがいたりとか、兄弟がいて老親の面倒を見ていたりとか、そういう現実も否定できない。そういうものからまったく切り離されて、ホームレスのように生きてゆけるのかという話です。
 

【目次】
イントロ|住まいの調査手法住まいの原型フィリピン・ルソン島の民家と日本の古代住居調査作業屋根裏の空間水上生活者バジャウと狩猟採集民プナン何のための住居住居に向けられたエネルギーマイホームの共同研究会消費財としての住居巣としての住居空間と人間関係ホームレス住居と記憶四冊の本重みを失う空間