特別展「マンダラ ─ チベット・ネパールの仏たち」
カトマンドゥ盆地におけるマンダラとしての壺
吉崎 一美
子宮としての壺
このプロセスは仏像も人間と同じように生死を繰り返すという発想にもとづきます。それで魂入れの際には、ネパールの人々が人生の節目ごとに受ける十種の通過儀礼(懐妊式、誕生式、お食い初め(写真5)、成人式、結婚式など)が再現されます。そこには男子のみが受ける儀礼と、女子のみが受ける儀礼が混在しています。つまり仏像は男女の両性を具有しているのです。
仏は本来は蓮華の上に生まれます。しかし釈尊の例から知られるように、この世で悟りを開く者は、その最後の誕生では母胎から生まれることになっています。それでここでの最初の誕生でも、像は母胎から生まれる形態を取ります。全身を覆っていた白い布が取り払われ、像はまず顔の部分から現れます(写真6)。スヴァヤンブーの輝く光も、蓮華にのってその姿を上から下へと現しました。マンダラの神々の姿を語る文献でも、仏たちの姿は顔から足下に向かって描写されます。
これらは胎児の出生をなぞらえています。壺はここで子宮になっているのです。壺の礼拝儀礼では、壺の中に宿った仏は、次に壺から身をせりだすようにして出現します。このときに仏が壺に宿る(その姿はまだ見えません)のは「受胎」に相当し、壺から身をせり出して出現することは「誕生」にあたります。