国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.2 岸上伸啓―祖母の貯金をかてにカナダ留学

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岸上 高知県高知市のミマセ漁村という漁村の社会変化の研究で修士号をとりました。高知市内の南の端ですが、昭和の初期まで日本でもっとも小さな村だったそうです。人口規模・大きさもですね。それが高知市に併合された。高知市の中の僻地とはいいませんけれども、ちょっと交通のアクセスが悪いところなんですよね。でも自分の実家から通えるところだったんです。だからその漁村を中心にフィールドワークをやって論文を書くことにしました。
ところが、ぼくは社会学が大嫌いになりましてね。というのは、概念ばかりが先走ってえらい難しい。それから現実をみないで概念ばっかりもてあそぶようなところがけっこうありましてね。

─ 社会学を専攻するとなると、西村朝日太郎先生とは別の先生がいらしたわけでしょう。
岸上 ええ、そうです。ぼくの卒業論文の指導教官は数理社会学の先生で、理系出身の坂田正顕先生という先生でした。それから、修士課程のときの指導教官は正岡寛司先生という家族社会学の先生です。でもやってることがあんまり違いすぎておもしろくなかったんですね。それで、修士課程を終わった時点で就職活動をしまして、三月ぐらいに高知市役所の上級事務職に決まっていました。
それから、もうひとつの手もありました。スチュアート先生が、「君はもう早稲田にいてもしょうがないから外へ出ろ」といったんです。外へ出ろというのは、先生は他の大学へ移れという意味でおっしゃったらしいんですけど、ぼくはてっきり外国へ行けといわれたと思ったんですね。それで、外国に行くことを真剣に考えはじめたんですよ。
修士課程の一年のときか二年のときか忘れましたけどね、カナダのモントリオール大学のフィリップ・スミスという偉い考古学者と、その奥様でマクギル大学の教授の井川史子先生が、講演旅行のために日本をまわってこられたんですよ。で、井川先生は考古学の先生だったんですけれども、いろんなところで講演されて、そのときにおっしゃったのは、カナダというのはあまり日本に知られていない。バンクーバーなんかは学生もいっぱいいるけれども、トロントとかモントリオールとか、東の方には学生はきていない。だから、もし大学院にくれば、採りたいということだったんです。じゃあ、ということで応募したんですね。
ぼくね、マクギル大学って名前なんか聞いたことなかったんです。行くまでどんなところかわかんなかった。で、当時、某私大の柴田梵天さんの殺人事件がありましたんで、ぼくのおじいさんが、うちの孫はカナダのそのような大学に行くんじゃないかと思って、すごく心配してたんですね。バークレーとかUBCとかハーバードとか、そりゃみんな知ってますよね。マクギルなんて名前聞いたこともなかった。はっきりいうと。う~んと思ったんですけども、まあ、入れてくれるっていうから行きました(笑)。

─ 奨学金をもらって?
岸上 ええ、もらう予定だったんですけど、とれなかったですね(笑)。しかも、83年に行ったんですけども、はじめの一年間は条件つきでした。一応出身が社会学になってますからね。それに日本からきているということで、どんなだかわかんないから、一年間様子をみるという。それで、よければ翌年から入れてやるというような形でした。

─ では、高知市役所のほうはどうなったんですか?
岸上 断りました(笑)。両親もじいさんばあさんも、泣きましたけどね(笑)。しかも外国に行くというしね。

─ それも聞いたこともない大学に。
岸上 しかも長男で、ひとりっ子なんですよ。それで、資金的援助もないわけですからね。結局うちの祖母の貯めたお金200万円をいただきまして、めでたくカナダに留学しました(笑)。東京をでたのが83年の八月の終わりでした。


─ その井川史子先生は考古学者ということですよね。受け入れるといっても何の研究で?やっぱり漁村や漁業のことですか?
岸上 はい。最初は漁村だったんです。でもカナダへ行くのならやっぱりカナダ研究のほうがいいだろうということと、それからメインではなかったんですけど、サブでは大学一年生のときからずっとスチュアート先生のところでイヌイット研究をやっていました。研究会とかにでて勉強してたんで、それならイヌイットでもいいかなと思って。
で、結局こういうことにしました。むこうの大学院に応募するときには、日本の漁村の研究をやりたいということで出して、実際むこうに行ってからの半年か一年の猶予期間のうちにさっとイヌイット研究に変えることにしたんです。まったく新しいことをやるんじゃないので、なんとかなるかなと思ったんです。
そんなこんなでむこうに行きまして、やっぱり大きなショックというのが二つありました。ひとつは自分のやっている学問がアメリカではもう古かったということと、もうひとつは気候でした。そのとき東京は八月の終わりで30度近かったんですよ。で、バンクーバーの空港に降り立ったら、もう20度しかなかった。こりゃとっても冷たいところにきたなと思って汽車に乗りました。
汽車に乗って、モントリオールまで二泊三日ぐらいかかりました。大陸横断です。で、こんどは山をみたら九月なのにもう葉っぱがないんです。こりゃとんでもないところにきたなと思ってね。寒いし。下宿先を前もって決めてもらっていたんで、そこにいって、翌日、学校に初めてむかったんですよ。歩いていけるところでして、町も非常にきれいなんですけど、空気が澄みきって寒いんですね。これがほんとうに九月かなと思いながら学校に行ったら、デパートメントの人が、おお、日本からよくきたな、といって驚いてくれました。それで勉強をはじめたんです。

─ 20年前ですけど、まだそのころは日本人がそんなに珍しかったんですか。
岸上 その地域がフランス系だったこともあって、観光客はきてたでしょうけれども、学生は少なかったです。モントリオールには、商社マンも含めて500人ぐらいは日本人が住んでたらしいんですけど、あまり関係なかったですね。
それでもうひとつのショックは、スチュアート先生もそうですけど、ぼくが習った学問というのは1970年代から80年代初頭のオーソドックスな人類学で、いわゆる伝統社会の再構築なんですよ。しかも親族研究中心の社会構造の研究。そういう教育しか受けていないわけですね。
ところが当時のカナダというのは、一方ではアプライド・アンスロポロジーが全盛なんですね。もう一方はアメリカではなくて、マルクス主義人類学、唯物論的な見方、フランス流の唯物論ですが、これがかなり力をもってたんですね。だから自分がやってたのとかなり違うんですね。それで、行ったときはすごい違和感をもったんです。
その一年間何をやったかというと、言葉の問題もあるから学部の授業にでろといわれて、ドクター一年の学生が、大学一年生の「文化人類学理論入門」というのと、「開発人類学」、「English as a Second Language」、つまり英語の授業と、もうひとつは大学院の授業だったと思いますけど、「リサーチ・メソッド」この四つをとった。そうしたら、各授業が週に二回ずつあるんですよ。四コマだけなんですけど、レポートが必ず二つ、試験も二つあるんですよ。言葉はわからないし、宿題はいっぱい出るし、大変でした。だから最初の三ヶ月間、ワン・タームは、体重が、今と比べて15キロぐらいやせましたね。頭の髪もふぁ~っと薄くなったですね(笑)。
それで次のタームで、大学院の授業を、北方研究と、エスニシティかなんかをとって、めでたく入学ということになったんです。むこうはやっぱり奨学金の制度が整ってますので、マクギル大学のほうから、授業料と生活費程度のものをだしましょうといってくれたんですよ。ちょうどそのころ日本人の学生のためにカナダ政府の出す奨学金がありました。四年間ぐらい出してくれるんですね。それがちょうど通ったんで、結局二年目から帰るまでの四年間ぐらいはカナダ政府が面倒をみてくれました。しかも博士号をとらずに就職しちゃったもんで、ちょっと顰蹙かいましたけど(笑)。

─ そのころのカナダの人類学の学風はアメリカとはかなり違っていたわけですね。
岸上 やっぱり当時は、日本もそうでしたけども、アメリカでは、ギアツとかイギリス系のターナーとかの解釈人類学がものすごくつよかったですね。一方マクギルでは、それもありましたけど、象徴論よりはアプライド・アンスロポロジーのほうが比較的つよかったですね。

─ フランス流のマルクス主義の影響をいわれていましたが、ゴドリエとかそういう人たちですか。
岸上 そうですね。アルチュセールとか。要するに、フランス系カナダ人が多いんで、そういう人たちがフランスとかケンブリッジとかに留学して先生になっているんですね。そうしたらやっぱりものすごく唯物論。もともとはマルクス主義からきてますけどね、それから次にフランス流の構造マルクス主義ですね。ぼくがこのときに叩き込まれたことがあります。それは何かというと、彼らの見方からすると、人間社会というのは権力闘争だということなんですよ。パワーの問題に異様なまでに先生方がみんな関わっているんですね。人間関係だって権力関係だ、何かをやるかやらないもパワー関係だと。そういう視点というのはぼくたちにはなかった。ぼくたちにとっては学問というのはニュートラルなもので、人間関係は重要であることは知ってましたけど、あんまり注意を払ってませんでした。ところが、先生方はその点をものすごく強調するんですよ。

─ それは、たぶんフランス流のマルクス主義ですね。
岸上 もっというと、ブルデューの実践理論ですね。ぼくの先生のところではそれが全盛でした。だからその流れを習いましたね。

─ すぐわかったんですか?
岸上 いやぜんぜんわかんないです。まず読んでもわからないです(笑)。ただ先生方のいわんとしていたことはなんとなくわかった。規範だけをやっていた時期がありましたが、それに対して行動が規範を侵したり、規範が行動を規定したり、それから行動と支配とかいう見方ですかね。日本では当時まだ実践理論なんか相手にされてないし、アメリカではオートナーが80年に「1960年代以降の人類学」という論文を書くまではあまり注目されなかったですね。で、そういう意味では、ぼく自身のやりたいことは別のことだったけれども、ひとつの流れだったのかなと思いましたね。

─ その後の先住民の海洋資源の研究、漁労を中心とした生態学的な研究をするにあたって、そこから自分でも影響を受けてると思います?
岸上 ええ、あると思います。先住民の人たちを研究して、その成果をもってある状況をよくしようというときには、もう思考じゃだめなんですよ、アクションしかないんですね。そういう意味では、行動の重要さというんですか、実際にある知識を利用するということの重要性というのをつよく感じましたね。
ただ、当時、その大学には二つの流れがあって、一方はフランス流の先生がいて、一方はハーバードのシカゴ学派がつよかったんですよ。だけどシカゴにも二つ流れがあってね、ひとつは、ギアツとかあのへんの象徴人類学で、もうひとつは当時まだサーリンズもいたし、あのひとたちはアフリカを中心として、パストラリズムと農耕社会の経済開発の研究をやってきてるんですよ。その経済開発のグループの人たちがマクギルに五人いましてね。その先生たちが非常に力をもっていて、世界銀行へ移っていったりして援助の仕事をしているわけですよ。アドバイザーとか委託でですね。その先生方がやっぱりその人類学的知識を生かして社会をよりよくしていこうという活動をしていました。当時は、ぼくはまったく関心なかったんです。むしろ帰ってから、ああ、あのとき学んでたらよかったなと思いましたけどね。要するにぼくは日本の学問の尾をひいてますんで、もうひたすら基礎的。そのときは学問は中立的であるべきであまり口を出すべきじゃない、基礎的なことをやろうというふうだったんですけどね。
シカゴ学派の系譜の人たちは、経済界とか政府とかと交流があって結局そこにいた先生のひとりは、マクギル大学をやめて世界銀行へ行ってしまいました。もうひとり、シンボリック・アンスロポロジストの教授はやめちゃったんです。すごい学者だったんですけど、今カリフォルニアへ行って、不動産屋をやっています。シカゴのサーリンズの弟子でして、20代で「アメリカン・アンスロポロジスト」とか「マン」とかに書いているリー・ドラモンドという学者です。あの先生は20年遅く生まれてきたら、今ごろは有名だったかもしれないです。当時は早すぎた。その先生はそのころもうマルチプル・エスニシティとか、シンボリック・エスニシティとか、ツーリズムの研究をしてました。調査地がカリブだったんですよ。カリブのリゾート地の研究をするといって研究費の申請をしたら、大学の人類学科で大笑いされた。それがなんで人類学なんだ、観光学じゃないかと。それが70年代の終わりから80年代ですよ。それからしばらくしたら、観光人類学というのが注目を浴びたんですよね。その先生はちょっと不幸でしたね。
あとマクギルというのはおもしろいところで、クリー族というアメリカ・インディアンの集団が北ケベックに住んでて、イヌイットの住んでいる南のほうにいるんですけどね。その社会の土地権の問題の交渉、それから経済開発と発展を、マクギル大学の人類学が一手に引き受けて、政府との交渉をやってたんですよ。リチャード・サルスベリーというイギリス人のニューギニア研究で有名な先生がいたんですが、その先生がドクターの学生を毎年いっぱいとって、その学生をクリー社会に投入して、学生を育てながらプロジェクトをやっていくというやりかたでやってましたね。まあそういう先生がまわりにいっぱいいたんで、やってることは基礎的なんだけれども、セミナーにでても授業にでても、やっぱりどこかしら応用というものが強調されていたというか、自分の中に入ってきましたね。友達もそうですね、みんな。

─ 日本にはその当時、そんな雰囲気ぜんぜんなかったですね。

 
【目次】
海洋民族学への夢祖母の貯金をかてにカナダ留学いよいよイヌイットの村へイヌイットとブリジッド・バルドーの関係命名法の不思議都会のイヌイットイヌイット放送キリスト教徒としてのイヌイット生じている社会問題イヌイット・アート先住民の住み分けとヨーロッパ人との接触「ラッコとガラス玉」展―先住民の交易活動イヌイットのわれわれ意識多様化する生活