国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

民族学者の仕事場:Vol.2 岸上伸啓―海洋民族学への夢

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海洋民族学を志し、カナダに渡った岸上伸啓青年は、ジーンズをはいてスノーモービルで走るイヌイットの人たちをみておどろきました。やがて、それでもイヌイットはイヌイットであることを知ります。イヌイットと女優ブリジッド・バルドーとの意外な関係、キリスト教の影響、現代の社会問題、等々、岸上さんはイヌイットの人たちとの20年のかかわりを熱く語ります。
 
岸上伸啓近影
 

─ 岸上さんは寒い土地の研究をつづけておられますが、ご出身はどこでしたか。
岸上 生まれも育ちも高知県高知市でして、むしろ南国なんです。

─ 北前船も行かないですね。最初に北方に興味をもったのはいつごろですか。
岸上 ぼくは1977年に早稲田大学に入ったんですよ。当時は夢がありまして、考古学者になりたかった。日本国家の起源を研究したかったんですけれども、一年生のときに九州に発掘に行ったんですね。で、現場に行ってやらされたことは杭打ちとかばっかりでね。自分の思っている考古学とやっていることがまったく違ってたんですね。飯場生活があまりにもきつかったので、脱走したんですよ。それで一年生の九月に、失意のうちに東京に帰ったわけですね。
それから、どうしようかなと考えたときに、西村朝日太郎先生という、海洋民族学というものを当時の日本ではじめて打ち立てた先生がいたんですが、その先生が早稲田大学で文化人類学を教えておられた。それから渡辺仁先生が、そのときは東大文学部の人類学の教授だったんですけれども、非常勤講師で生態人類学を教えてられたんですね。

─ 文学部で。
岸上 ええ、一年の時です。ぼくはその両方の授業をとっていました。もうひとり、考古学にイヌイット研究のスチュアート・ヘンリ先生がいたんですね。今は昭和女子大におられますが。その先生方の授業をとったりして、交流がありました。
で、まあ、よくいえば先生方の魅力にとりつかれたというか、悪くいえばだまされたといいますか………。当時の先生たちはやっぱり夢があったんですよね。西村先生は学問はやっぱり世界に通じなくちゃだめだといっておられて、インドネシアとか日本の沖縄、九州の有明海などの研究を中心として、海洋民族学という新しい分野を打ちだして、イシヒミの研究や泥潟の研究をなさったんです。イシヒミというのは沖縄の言葉らしいんですが、海の満ち引きを利用して魚をとる大きな仕掛けなんです。泥潟というのは、有明海なんか潮が引くとずっと先まで泥の浜になるので、そこで魚をとるためのいろんな仕掛けがあるんですね。そういう研究を中心とされてて、それをもとにして海洋人類学というのを提唱されたんですね。まあ、話がでかいんです。それに魅力を感じた。
それから渡辺先生は非常にオーソドックスな研究をされていたんですけれども、教えられたことには、人類学というのは古今東西の人間全部を扱う。先生はもともと理学部ですから、進化論が頭にあるんですね。話がものすごくでかいですね。われわれがそれまで学校で習ってきた話と比べて、スケールがぜんぜん違う。
スチュアート先生は当時もう日本に帰化しようとするぐらいで、日本語は訛りはありましたけど上手に話せたんですね。もう25年くらい前ですね。で、カナダに逆留学して二年間、トロント大学で当時大御所のウィリアム・アーヴィングという学者のもとで研究された。考古学だったんですけどね。北極で、日本人としてちゃんとフィールドに行って、日本に最初のデータをもって帰ってきたわけです。だから、先生はもう話したくてしょうがない。それを若者たちを集めて語るわけですよ。

─ それは考古学的な研究だったんですか。
岸上 ええ、考古学的な研究です。だけど一方で、スチュアート先生はイヌイットの民族学にも関心があった。当時の風潮として、考古学の研究に民族学がつかえるという考え方があったんです。要するに、民族学の研究をして、それを過去に投影して過去の社会を理解するのに使うということで、両方研究されてたんですね。ということで、文化人類学、生態学的な見方、それからイヌイット研究というのを大学一年のときに学んだ、というか魅力を感じたんですね。
ぼくは当時、文化人類学と社会学はぜったいやらないだろうと思っていました。ぼくが好きなのはやっぱり歴史学とかそういうものだったんですが、気がついたら文化人類学になっていました。
西村先生は当時もう67歳ぐらいで、子供もいなくて、若い学生を非常にかわいがったんですね。でも、すごく気難しくて厳しい先生だったんで、弟子はあまりいないんですよ。最後の三年ぐらいになりまして、変なのがでてきたということで可愛がってくれましてね。酒を飲みに連れていってくれたり、バニーちゃんのいるバーに連れていってくれたり、一対一で講義を受けたり。非常に感銘を受けたわけです。試験は、当時は通年で、一発勝負なんですよ。先生はカフカ(可不可)先生とよばれていまして非常に厳しいことで有名だったんですよ。その先生の試験になぜか非常にいい点をとった。じつはそれには理由があって、ぼくは試験を受けるために先生の著書を三冊全部読んで、それでようやく授業の内容を理解できて解答したんですね。先生が、そうか、それならまあ人類学をやれということで、一年のときから個人的に教わりました。というのも、そのころ早稲田大学には文化人類学の講座がなかったんです。先生は専任なんだけれども文学部の中の一般教養の先生でした。
だから特定の学科に属してないんですね。二年生のときには、講義がないけど大学院の授業をやってるからそっちにきてよろしいということで、大学二年のときから西村先生の大学院の授業に出させてもらったんです。で、なんで一年生のときのあの授業がわからなかったかと思うと、先生は大学院でも新入生と同じこと教えているんですよ(笑)。わかるわけがない。そのときに、ああ、これはすごい先生だなと思った。よくいえば大学院生でも新入生でもわけへだてなく教えるということです。そういうことで文化人類学をはじめたんです。

─ かなり個人的に研究室に出入りしたりしてたというのは、逆にそのころ、そういうことにはまる人はそうたくさんいなかったわけですか。
岸上 ええ、そうですね。当時の早稲田は東大の真似をしてまして、一般教養が二年間、専門課程が二年間なんですよ。で、文化人類学をやりたい人はその専門コースがないので、日本史にいくか、社会学にいくかしかなくて、ぼくは社会学を選んで、文学部社会学科に入りました。当時は、西村先生の薫陶を受けてますので、南方の暖かいところの島に行って、漁労民の研究をしたかった。これが夢だったんですよ。じつは卒論は通文化研究の方法論で書きましたけど、修士課程までは日本の漁村でフィールドワークをやってました。

 
【目次】
海洋民族学への夢祖母の貯金をかてにカナダ留学いよいよイヌイットの村へイヌイットとブリジッド・バルドーの関係命名法の不思議都会のイヌイットイヌイット放送キリスト教徒としてのイヌイット生じている社会問題イヌイット・アート先住民の住み分けとヨーロッパ人との接触「ラッコとガラス玉」展―先住民の交易活動イヌイットのわれわれ意識多様化する生活