国立民族学博物館(みんぱく)は、博物館をもった文化人類学・民族学の研究所です。

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』 ─ 17.クルマばあさんと、石の龍じいさん

樫永真佐夫『ハノイの異邦人』

17.クルマばあさんと、石の龍じいさん
 黒タイの村の人はかなりキョウダイが多いし、昔は小さいうちによく亡くなったので、けっこう適当な名前が多いものです。クルマばあさんも本名です。別の号で、1933年に国道六号線が開通した話を書きましたが、クルマばあさんははじめてここにフランス人の乗ったクルマがやってきたときに生まれたので、そういう名前が付きました。それが1933年かどうかはわかりません。
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 クルマばあさんは呪術師です。いろいろな薬を調合したり、おまじないや儀礼を行ったりして、悪い精霊を退散させることができる技術者です。いろいろな人からの要望で、いつもあちこちの村に呼ばれて行き、数日帰ってこないこともしばしばです。村に戻ってきてもぜんぜんじっとしていません。孫の面倒やらなんやらで、息子や娘の家をあちこち転々と泊まり歩いているのです。
 ぼくがしばらくぶりに村に戻っているのを見ると、いつもぼくの手を取って「息子よ、カアさん、おまえがいなくて寂しかったぞ!」と繰り返すわりには、じきに「ホナ!」という感じでスタコラサッサ、どこかに出かけていってしまいます。ベトナム語は話せないし、多分話す気もないのでしょうが、市場に行って新しいものを見たりするのは大好きです。お金がなくても時間があれば市場まで何キロも歩いていって、彼女なりの見聞を深めて帰ってくるのです。彼女自身がクルマのようだといわれています。
 幼いときに両親を亡くし、しかももともと貧しかったので、この月はこの家、次の月はあっちの家、その次はまたこの家、という具合に親戚の家を転々としながら育った生い立ちが関係しているかもしれません。残ったのは女キョウダイばかりだったので、家の外に彼女の父方の祖先の霊をまつる祠を建てましたが、黒タイは父系制なので、彼女が亡くなればもう彼女の両親より上の代の人をまつるのもおしまいです。
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 彼女を見ていると、ぼくは亡くなった日本の祖父を思い出すことがあります。祖父の石龍という名は号ですが、流浪の俳人でした。あれは本当に石だったのでしょうか。龍のように飛び回っていたことは確かです。生い立ちもクルマばあさんと似ていますが、その半生、どこで何をやっていたのかよく知りません。定職に就いたといえば、ある時期学校の教員、ある時期神社の宮司だったことはあるようです。俳句を詠み、どこで習ったのか日本舞踊を舞い、手相、姓名判断、按摩をよくし、でもキミョウキテレツな字を書きました。いずれにしろ生活力はありませんでした。年をとって体の自由がきかなくなってからは、若い頃から家族の面倒さえ見なかったのが祟り、親族みんなに対して卑屈でした。
 今でもよく覚えているのは、じいさんはウチに来るときかならず駅から電話をかけてきて、どんな土産がほしいか聞くのです。だからお土産は楽しみでした。クルマばあさんもどっかで祈祷して帰ってくるときには、必ずお礼の品々を持ち帰ります。鶏肉、豚肉、おこわ、米などです。だからクルマばあさんが帰ってくるのを家族みんなも待っています。
 クルマばあさんが持って帰ってきたおこわなんかを分け合って食べながら、子どもんときこんなことあったっけな、とふと思うことがあります。
 
[2002年10月]
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